視覚に障害のある人とのことばによる美術鑑賞会議 
報告書

 

鑑賞とは何か
この鑑賞の魅力とは

そもそも「鑑賞」とは何かをグループで討議し
この鑑賞から得る共感性や達成感などを探った

 

1.それぞれの鑑賞

2.「観えた」という瞬間

3.この鑑賞の満足感と「共有」

4.「共有」より「分有」

5.美術の物語性

6.鑑賞について語るわけ

 

中庭でのディスカッション 写真

1.それぞれの鑑賞

4班に分かれ「鑑賞とは何か」について中庭でグループディスカッションを行いました(35分間)。

<発表>テーマ「美術鑑賞とは○○である」

■1班:日野、北村、濱田*、森下、岡崎、梅田、ホシノ

1班発表のようす

「美術鑑賞とは、一つではない」(決めないこと)

→多様性があるものであり、意見もさまざまだった。

・美術鑑賞をしていたら終電を乗り過ごした。

・美術がなければ生きていけない。

・現代社会では「ゆるやかさ」が大事だが、それが許される場面が少ない。ゆえに、美術鑑賞は生きるうえで必要。

・美術は媒体である。一人の作家という人間から生まれた作品を媒体にすること、作家の真剣な表現と語り合うことで豊かになる。

・一方、美術に固執しすぎると硬くなるとの意見も。

 

■2班:塩瀬、武居、井尻、柴崎、松尾、村井、山田、大内、出口

 

2班発表のようす

「美術鑑賞とは、全力で観ることにチャレンジすることである」(全力で観るチャレンジ)

 

→「鑑賞とは?」の問いでは位置づけなどの意見が混同。

・知覚的印象。

・フィーリングによる印象。

・いろんな方法があり、いろんな見方がある。

・話していると高揚感が増す。

・好きなエンタテインメントである……など。

→「美術鑑賞とは何か?」と問い直す。

・褒めたたえるような鑑賞。

・固定的な観方とは違う。

・鑑賞者の自己表現。作品は作家がどう感じたか、その個性を表現しているので、鑑賞も個性が出る。どう感じているか言葉を尽くすので、作家の創作と同じくらい創造的な仕事。

・感情・感覚のマッサージである。普段は立ち止まらなかったのに絵の前では立ち止まれる。自分で鑑賞ができた感覚が大事。だから自分で観ないといけないもの …など。

→まとめ

・全力でアートを観ること。見えない人と絵の前に対峙したとき、言葉で表現するには、全力を出さないといけない。言葉にすべての感情や印象が込められるわけではない。だからその不定さに向かって挑戦が必要。そして不定だからといって手を抜くのではなく、自分の内から搾り出すように全力で向き合うことで初めて、その言葉の積み重ねが作家の創作と同じくらい創造的な鑑賞を可能にする。

■3班:廣瀬*、白川、杉浦、光島*、池尻、渡辺、高田

「鑑賞とは、五感を刺激し刺激される想像力の営みである」(自分のイマジネーションやクリエーションを起こすこと)

3班発表のようす

→博物館でも鑑賞は可能か?

・博物館では答えを求めている場合が多く、鑑賞という言葉はあまり使わない。

→鑑賞とは何か?

・作品と対話すること。会話によって鑑賞する。

・それぞれの鑑賞がある。

・インプットとアウトプットがある。

・全盲者は触った方が記録に残り、再現性がある。

・インプットは一時的、直接的なものだが、言葉による鑑賞は二次的。視覚的に得たものが言葉に変換され伝わる。

・表現であるアウトプットよりインプットが大事。インプットは、対象物によって五感が刺激されること。

→キーワード

・「想像力」。鑑賞によりイマジネーションやクリエーションが自分のなかでどう起こるか。

 (廣瀬:広義で捉えれば博物館でも鑑賞は可能だと思う)

 

■4班:木村、白鳥*、阿部、石田、森山、杉、吉岡、

鑑賞とは、創作表現である」(自分と会話して自分をつくり上げること)

4班発表のようす

→美術館で何を楽しむか?

・さまざまな鑑賞スタイルがある。

・作品を観て自分のなかで発見する。

・一緒に観ている人と同時性を味わう。空間を鑑賞する。

・触れる作品は話さずに一人(自分)で観たい。が、対話型も大切な鑑賞スタイル。

→鑑賞にはチャンネルが二つあるようだ。

・一人での鑑賞は、自分のなかで発見し、取り込んでいく。

・対話型の鑑賞は、美術が難しい、鑑賞のしかたがわからない、というところにチャンネルを与えること。

→まとめ

鑑賞とは、対象物を自分のなかに取り込み、自分をつくり上げること。作品を介して、もう一人の自分と会話する行為。言葉による鑑賞も、それらを含め、自分のなかにイメージをつくり上げる創作行為。

 

◇◇◇

 

司会:発表に対して質問や意見はありますか?

 

R塩瀬:4班の「鑑賞は創作表現」について。2班でも「表現」という意見が出ましたが、「言葉を使わなかったら?」という疑問が上がりました。沈黙も表現ではあるでしょうけれど、「言葉を尽くそうとしたときに全力が出る」といったような表現が、一人での鑑賞でもあるのかどうか……。4班の「表現」とはどんなものでしたか?

 

G3白鳥*:4班の言う「創作表現」は、内面的なもの。一人での鑑賞でも、作品を見て感じて、何かを自分の中に取り込んで、自分の中で対話して、自分の中でつくり上げる行為を含んでいます。

 

G1石田:一つの美術作品があるとして、その半分は、それを観てイメージする側(鑑賞者)の創作物です。作品は変化しないが観る人自身は変化し、観る人によって、また観る時期によって刻々と変わります。また、創作過程のなかに、既に作者の鑑賞が入っています。観る自分とつくる自分がいて、それを繰り返す過程で、一つの美術作品ができ上がる。

 

司会:ディスカッションの中では、「自分との対話」とか「一人で鑑賞していても一人ではない感じ」といった意見を聞いて、対話は、二人で観なくてもありうるのだなと思いました。

 

M梅田:1班では、最初にホシノさんが「美術鑑賞とは、人生である」と断言していたのですが、自分の体験や人生と結びつけてかかわるところに美術鑑賞の特色があるなと思いました。

 

R井尻:ここで上がっている美術鑑賞と大学での美術鑑賞の位置づけは同じですか? 

 

R杉浦:うちの大学が打ち出そうとしている鑑賞教育の提案と、ここで上がった鑑賞と一致するかはわかりません。ただ、一般の学生が「鑑賞とは何か」を考える機会はあまりないと思いますが、アメリアなどの授業が手がかりとなって考えることはあるかもしれないですね。

議論のようす

G2光島*:ディスカッションの中で、「鑑賞とはコミュニケーションである」という答えはありましたか? ビューでは、コミュニケーションを楽しみに参加する人もいて、私自身は少し戸惑うこともある。おしゃべりが目的になっていることに抵抗を感じる人もいると思うのですが。

 

G1石田:4班では「コミュニケーションだ」という意見は出ませんでした。一人で作品と向き合うときは、自分の中にいるもう一人の自分と仲よく一緒に鑑賞している状態。数人で鑑賞するときは、自分の中にも他者がおり、作品や一緒に観ている人の中にも自分を見ることがある。言葉によるコミュニケーションの前に、言葉になる以前のコミュニオン体験があり、対話の前に「同じ時間、同じ場所にあなたと一緒にいる」という関係があると思います。

 

司会:今のお話を伺って「鑑賞はそもそも一人でするものなのか?」という疑問が思い浮かびました。児童心理学者のヴィゴツキーは、子どもが世界にかかわっていく際には、身近な大人の関心や目線をたどることが重要であること、つまり人は一人ではなく、必ず誰かほかの人を介して初めてものを見たり、世界に触れることができるようになるのだと言っています。その意味では鑑賞もまた、他人という存在、あるいは自分の中の複数性があって初めて成り立つことなのかもしれません。

 

R塩瀬:この会議で話したかったことが二つあります。

一つは「どうあれば鑑賞を持って帰れたと言えるか」。見える人、見えない人、美術館の人それぞれ、言葉にできないままでいると思います。一つでなくてもいいので、この言葉による鑑賞で「やった」と思えるとはどういうことかを知りたいです。

二つ目は、システム化について。この活動を広げ継続するには、システム化が必要だと思うのですが、思いが少しずつズレてくる恐れがあると思う。賛同者が増え、動きがスムースになるかわりに、最初に立ち上げた人の思いが消えていく恐れもある。見える人、見えない人、美術館の人、それぞれ期待が違うと思うが、焦って一つに絞らず、これもありあれもありと、まな板に並べて共有したい。

 

司会:グループディスカッションで、1班は定義をしない、システム化しない方向にある。しかし、言わないと固まらないし続かない。そこが難しい。

 

R塩瀬:言葉による美術鑑賞自体がそういう性質を持っていますよね。作品から得た感想が言葉にすると消えてしまう。でも、横にいる見えない人に伝えるには、言葉にしないといけない。それには誠実に言葉を尽くすしか方法がないと思う。システム化の場合も、これがすべてじゃないと覚悟して全力でつくるしかない。言葉による美術鑑賞とは何か? と言ったときに、どれだけ人智を尽くせるかが、僕たちに課せられているのだと思います。

 

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2.「観えた」という瞬間

司会:次は、塩瀬さんも提示した「各々がこの鑑賞のどこで満足感を得られたのか」「『観えた!』とはどういう瞬間か」。また、「システムをどうつくるか。硬直化する面もあるが、ゆるさとの兼ね合いをどう考えるか」について話し合いたいと思います。どちらも「どう伝えればこの鑑賞が広がるか」に関係するテーマです。その議論の中で、この鑑賞の「おもしろさ」を言語化できればと思います。

R井尻:この鑑賞で「いい鑑賞ができた」「今日の鑑賞はよかった」とは、どういうことか知りたい。例えば、光島さんが言うこの鑑賞で「観えた!」という瞬間は、どんな感じですか? 

議論のようす

G2光島*:時々、スッと体に入って来るような嬉しい瞬間があります。最近では「たんぽぽの家」のワークショップで、こちらが問いかけていくうち、見える人が「こんな風にも見える」と観えてきて、だんだん絵に一つの物語ができていきました。

また、僕は風景画が苦手で、「風景の中に入ればいい」と言われても、ずっと実感がわかなかった。が、岡山の美術館のある作品では、家の入口があり、道が続いていて……と、絵の中に入れた瞬間がありました。

また、満足感とは逆に、寂しい絵を前にして嫌な気分になり、鑑賞を続けたくないと思ったこともあります。雨が降って気分が滅入っていたせいか、このときは「見たくないものを観てしまった」という感じでした。

相手がどう感じているかはわかりませんが、一緒に観ていた人と言葉を積み上げていくうち、スッと入って来るような瞬間がある。それを僕は、「観えた瞬間」「感じた瞬間」と言っています。

 

司会:「ほかの人も同じように感じていると感じた瞬間」(共有)が“観えた感”のキーワードなのでしょうか?

G2光島*:ん〜……共有できたと感じたということもありますが……、パッと開けたという感じ。トンネル、低い天井から広い空間に抜け出たという感じです。

 

M森山:全員が「嫌い」と言いながらも、嫌な理由を語り合ううち、それぞれが丁寧に自分の感情を見つめることができた、という鑑賞例もあります。後ろ手に縛られた女性が手を使わずに桃をクチャクチャ食べるビデオアートの作品です。否定(拒絶)しながらも語り合うことで、作品との関係を持てた。それもある意味、いい鑑賞と言えると思います。

 

G3ホシノ:わかり合えたと思えても悲しい結末になることがあります。以前、東京都美術館の『池田満寿夫』展をMARの見えないメンバーと観たとき、鑑賞中は楽しんでできたのですが、最後に「池田満寿夫の描いた絵を今日は本当によく観られた。だけど、今日ほど自分が視覚障害者だと自覚させられた日はなかった。それが悲しい。僕は目が見えるようになりたい」と言われ、僕は言葉が出なくなりました。

鑑賞から何を持って帰ったか? と問われたら、その日は、悲しみにほかならない。以来、理由は知りませんが、彼は参加しなくなった。僕は「彼を悲しませてしまった」と、MARを休むようになりましたが、しばらくしてその自責の念はふっきれました。似たような経験は、日常にもある。楽しさと悲しさは裏表。言葉を尽くしても尽くしきれないことがある。

 

播磨:皆さんの話を聞いて、一つは感覚の共有が、「わかった」「観えた」という意識になると思いました。心地よい感覚も不愉快な感覚も、共有することが知の始まりです。知る苦しみもあるが、それもスタート。スピリチュアルな世界では、自分が無力であることを自覚することから自己の探求が始まり、自己を超越して覚醒に向かうと言われています。

もう一つ、「わかった」「観えた」という意識は、物語を感じ取ったときにも起こる。物語を知ることは、人生の謎解き。絵や鑑賞を通して、他者の物語を知り得たことが、感覚の共有につながるのだと思います。

言葉による鑑賞は、絵の奥にあるものとの対話をサポートしているのでしょう。たとえるなら、学芸員のギャラリートークは、的を的確に射抜くアーチェリー。一方、この言葉による鑑賞は的の向こうにある心を射抜く弓道。つまり、描かれた絵を正確に捉えるのではなく、絵の奥にある心をいかに捉え伝えるか。

他者、異文化、環境への感受性が希薄になっている現在、よけいに人々は、絵との深いかかわりを強く求めているのだと思います。エイブル・アートに名画を超える感動の声が寄せられるのも、技巧を凝らしていない分、絵の奥にあるものが伝わり、感受性が呼び覚まされるからだと思います。

美術の「カンショウ」は、漢字で「鑑みる」の「鑑」を使いまうすが、「観光」の「観」を使った「観賞」もあると思います。観賞の「観」は「魂を照らす」意味で、仏教用語でもあり、心理学には、内面を照らし病んでいるものを癒す「内観法」という言葉がある。我々は西洋から来た「鑑賞」を学んできたが、心の中、魂を射抜くような新たな「観賞」のあり方を考えてもよいのではと思います。

 

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3.この鑑賞の満足感と「共有」

R廣瀬*:共有について。鑑賞ではないのですが、学生時代バッティングセンターで、ある「もどかしさ」を感じたことがあります。見えている子ども時代、草野球や野球盤ゲームの記憶があったので、音に反応すれば当たると思っていたのですがダメで、でも、知人に「ハイ」と声を掛けてもらったら、10球中3回くらい打つことができた。その達成感は「ハイ」という声との共同作業で得た満足感ですが、逆に僕が「ハイ」と声を掛けることができないことに、もどかしさを感じました。人と何かを共有する場合、そんな悲しみに近いもどかしさを伴うこともある。

G1石田:時間は2種類あって、例えば好きな作品を見ているとき、時間が短く感じたり、二人で美術を鑑賞してエアポケットに入っていたように感じたりしますし、逆につまらない映画は長く感じますよね。正確に移ろう時計の時間と違う、移ろわない時間が人にはあると思います。アートをつくる意志には、そんな移ろわない時間を観客に差し出し、時計の時間を止めてしまおうとする表現者側の野心があるのかもしれません。

 

司会:共有とは何か? 感覚が同じになる方向を目指しているとしたら、アメリアの対話型鑑賞のように、何かゴールに向かうようにも思えてきます。廣瀬さんの「もどかしさ」、人との違いを感じる関係も、気になるところです。

 

R井尻:私も「共有」という言葉がひっかかっています。それは、物理的に一緒にいなければ成り立たないのか? 例えばエアポケットは、誰かと同時に入ることなのか? 具体的な共有の例を教えてほしい。

 

G2山田:私は、この鑑賞に参加した人が求めている共有とは、違う次元にいる作家の現実より、一つの作品を誰かと一緒に見ている現実なのかな、と思ったことがあります。ビューの鑑賞で対話をテープに記録したときです。川でりんごを洗う親子の上に白鳥が飛んでいる絵について、みんなの感想は視点も考えも全然違うのに、どのグループも「おもしろい絵でしたね」と話し、でも、学芸員が説明をすると、作品のテーマを共有できたのに一瞬にして白けた。「自分たちの鑑賞の方がよかった」といった雰囲気になりました。

M梅田:共有の意味についてですが、国立新美術館の『エミリー・ウングワレー』展で鑑賞プログラムに参加した際、『雨の後』という抽象的な作品について、見える私たちは「雨の後がこんな色なんて意外」と話していたのですが、見えない人に「何色だと思います?」と尋ねると、一人の方が「緑」と答えたので驚きました。理由を聞くと「雨の日の方が植物の匂いを感じるから。もしくは土の茶色かな」と。実は、その作品は、緑と茶色の印象が強い絵だったのです。私たちは作者の意図を発見した思いで、そこから色のイメージについて語り合いました。もう一人の見えない方は、私たちがイメージするグレーも「わからなくはない」と言っていましたが、こういった経験は、見えない人と一緒に鑑賞したから得られたことだと思います。

 

司会:作品の意図や感覚を共有することではなく、感覚の違いから作品の見方を発見したり、人の言葉に感動したり、作品を語り合ったりといった時間を共有できたことに意味を感じるということでしょうか。

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4.「共有」より「分有」

G3ホシノ:違いを共有するには、共有ではなく「分有」だと考えています。共有は、丸ごと分けて同じく持つ感覚がある。しかし、分有は誤解を含めて分けて持つ感覚。作者の本当の気持ちはわからない。一緒に観ている者同士にも誤解がある。しかし、それらの誤解を含め、わかり合える瞬間がある。分有の意味は、そこにあると思う。誤解を感じながらも分有を広げる、その先に、何かあると思っています。

僕は、語彙の少ない子どもと「わかり合えた」という瞬間を多く感じます。

G3大内:人生経験が長い人とは、全然違うものを持っているのに、共通して何かが通じ合えることがある。それは、共有? それも分有が、ぴったりのような気がしますが……。

G3ホシノ:分有は「分けて持とうよ」「それが別々のものになってもいいよね」という感覚。

司会:「共有」や「一緒に見る」は、わかりやすい言葉ですが、言葉に限界がありますね。この鑑賞に合った言葉をつくらないといけないのかもしれません。

 

播磨:「感覚の共有」と「多様性」は、違うように見えてつながっている。こういった観方がある、考え方がある、とわかるのも共有。シンパシー(共鳴)を広めるのも共有。共有は多面性を持っている言葉です。

 

G3大内:梅田さんの雨の色の話のように「別々の感性が発見するおもしろさ」「わからないことがわかった瞬間」が、私が一番おもしろいと思っているところです。

 

G2光島*:ともに観ることで言葉が飛び交い言葉と言葉がカチンとはじき合う瞬間、火花が散る瞬間が、いい感じだと思う。

 

G1濱田*:皆さんが言っている共有とは違うかもしれませんが、コンパの鑑賞でブロンズ像を無我夢中で触っているとき、「共有」を感じました。人が集まり作品への関心も集まり、見えない僕でも美術のことで伝えられることがあることが、嬉しかった。そのとき、自分の場所がここにある、と感じました。鑑賞は自分の居場所探し。互いに感じることを、感じられた。作家に「どんどん触ってください」と言われたのも嬉しかった。

M北村:私は基本的に、鑑賞は個人的な営みで人との共有はないと思っています。しかし、一人で鑑賞していても、なかなか「ストン」と腑に落ちない。だから、私が人と一緒に鑑賞しておもしろいと思うのは、互いに違う観方を提示し合い、相手からのフィードバックで自分の「観方」が変わったとき。それが、視覚障害者と一緒にできるとは思っていなかった。MARの鑑賞では、見える人同士の鑑賞とは質が違い、違う資質を持った人同士の出会いによって、今まで自分が理解していたこととは違うものが発見できることがある。その点が、この鑑賞に私が興奮するところです。

 

播磨:「腑に落ちる」もこの鑑賞のキーワードだと思いますが、身体の「腑」である点が大事。丸ごと受け止め、自分の肉体に落とし込む。「共有」や「わかる」とは、そういうことと、日本人は理解してきた。そして、なぜか人は「腑に落ちた」快感をしゃべりたくなる。そこが不思議ですが、美術鑑賞の世界ではこれを抜きにしてきた。腑に落とすことや、幼児や知的障害のように異文化を丸ごと受け止めることは、分析しきれない。だから、近代の教育を受けた現代人は拒絶してしまうのでしょう。

 

R井尻:「スッと入る」とか「腑に落ちる」とは、どこからやって来るものなのでしょうか? そこにあったものなのか、やっとつかめたものなのか、知りたい。

それから、梅田さんの「イメージを共有」は、危ない言葉のように思います。どう確かめられるのでしょうか?

 

M梅田:共有ではなく、どちらかと言えば、発見です。一人でできなかった鑑賞で、こういう解釈があるのか、とわかること。北村さんの話に近いです。

 

R日野:「腑に落ちる」には「未知なものがやって来ること」と「体験として自分の中にあることが明確になること」との両方あると思います。

私がこの鑑賞で「観えた」と思うのは、一緒に鑑賞している方の人生や物語を媒体に作品の物語が読めたと感じたときです。また、人から物語を頂いたとき、「共有できた」と感じます。『フンデルトヴァッサー』展で『太陽・涙・血』という作品を鑑賞した際、「画面の右上に太陽、まん中に川、川岸に血を流した人がいます」と構図を説明し、「涙は何か……」と言葉を詰まらせていると、年配の見えない男性が「涙は流れるものだから川が涙ではないですか?」と言われました。涙が流れることは誰でも知っていることですが、見方の示唆を頂き、知らなかったことのように気づかされた。見えない方の物語がメタファーとなって、自分の中へ入ってきました。

 グループディスカッションでホシノさんは「鑑賞は人生。ドラマだ」と言っていましたが、「物語が生まれること」ではないかなと私は思っています。

 

 

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5.美術における物語性

播磨:現代の美術館や美術の世界では、物語や文学性を持ち込むことを拒否してきたのでしょうか?

 

M北村:西洋美術史に入り込む難しい話です。近代においては物語性と戦争は深く関連しています。つまり、戦争に利用されてきたわけです。そこで、ダダは物語性を破壊し、戦後も物語性への危惧が続いています。安易に物語性を持ち込めば、わかった気を起こさせる。けれど、作品から物語性を排除した究極は白いキャンバスになり、コミュニケーションが成立しない。そこに抽象画の難しさがあり、美術が近づきにくくなった要因があると思います。

私自身は、物語が見られて嬉しいという思いと、簡単には物語に乗りたくないという思いの二つがある。

 

司会:今の物語性の話は、感覚の共有の怖さに共通すると思いますが、日野さんが話していた物語は、作品の持つ一つの物語ではなく、複数の人がそれぞれに語る一つにならない物語でしょう。やはりこの鑑賞での「物語とは?」などの問いに戻ると思います。

 

R井尻:作品の情報を言葉で伝えることと、物語を言葉で伝えることと、共有は、どう関係しているのでしょうか? また、廣瀬さんの「ハイ」と情報を伝える行為にも、相手の物語が関係するのか? その辺りを知りたい。

 

播磨:情報には、確定情報と不確定情報があり、学芸員の解説は確定情報、この鑑賞で語られるのは不確定情報と言えるでしょう。不確定情報には、危うさや曖昧さがあり、だから、悲しさを伴う。しかし、それを排除せずに耐えていくことが、今、現代人に求められている生き方だと思います。

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6.鑑賞について語るわけ

M岡崎:この鑑賞に踏み込みすぎて離れてしまった人、逆にこの鑑賞になじめずに離れてしまった人がいたと思います。そういった失敗例からも、この鑑賞のどこで満足感を得られたかが、見えてくるように思うのですが……。

 

太田:学芸員的な解説(確定情報)が得られず、失望して来なくなった方が、圧倒的に多いと思います。

 

高田:これまでの発言を聞いていて、この鑑賞をどうしたいのかが見えてこない。ゴールが違えばアプローチも違う。戦術の話をしないともったいないと思うのですが。

 

司会:塩瀬さんが提言したシステム化の議論が次に用意されていますし、普及に関しては明日の議題になっています。

 

播磨:ゴールはみんな違うでしょう。大きく言えば、「私」が黙殺されない新しいパブリックをいかにつくるか。そのための議論です。それは、見取り図がないから難しい。けれど、基軸がキチンとしないと議論は行きつ戻りつするでしょう。現在、自分が自分であることを許されていない社会がある。社会は「公」ではなく「私」が始まりです。それをふまえて議論することで、新しい共同性が生まれると思います。

 

G3ホシノ:渡辺さんが話していたように、「目が見えない人が絵を見る」ことに驚かない人がいる。「私」がなくなってしまった社会だからか、悲しい実感があります。

 

M渡辺:最近、驚く人が減っているように思うんです。「何で?」がない。

 

G3ホシノ:だからMARではあえて「出会い系」とうたっているんです……。

 

播磨:リアリズムだけでは限界があり、新しいキーワードが必要でしょう。「社交の場」「サロン」「おしゃれ」……。森美術館側は視覚障害の人やベビーカーでの鑑賞をおしゃれなこととして共感している、という杉浦さんの話にもヒントがありました。「美術館は教養を高める場」では、はやらない。今は「おしゃれ」に価値が認められている。「観る権利のために開け!」ではなく、視覚障害の人がたくさん来て「先端だね」「おしゃれ」と思われることが大切。「重いものを軽く。軽いものを深くやれ」という井上ひさしの言葉があります。決して深いものは忘れてはいけないが、福祉でもおしゃれ感覚やかっこよくやることが大事だと思います。

 

宮本:やろうとしているのは、教養なのか、感覚なのか? 教養に基づかなくていいのか? 自己中心の発散思考でいいのか? 公から自分に落とす思考がなくていいのか? いい議論のように聞こえるが、美術を見ない私にはどこを目指しているのかわからない。わからない人との間を埋めようとしているのなら、この議論では変わらないと思うのですが……。

 

司会:今の「おしゃれ」の話は、活動を外へ向けて発信するとき堂々と虚勢を張れという意味だと思います。

 

播磨:この議論は知の体系化に向けた共同作業と言えるでしょう。戦略的システムアプローチで急いで結論を出しても、小さなマニュアルにとどまってしまう。しかし、その間で揺れていいと思います。

社会は一面ではなく、経済社会にいる人が見ている世界も、視覚障害の人が見ている世界も、一つの世界。多様な世界の虚と実が入り組み、その間を行き来しているのが現代です。だから簡単に解が見いだせない。これまでは哲学者が進路を示してきたが、これからは我々自身が回路を導き出さなければならない。その一つの実験が、この鑑賞のあり方かもしれません。

多様な世界はすばらしいがしんどい。しかし、違う世界の価値観が違う人と話すことに意味があります。しんどさを引き受けて語り合うことで、確実に見取り図は見えてきていると思います。新たな構造図を描くのは、とても難しいことです。当然、3日間でできることではなく、もっと研究者がやっていかないといけないと思います。

 

M梅田:「おしゃれ」という言葉で思ったのですが、美術館では最近、デザイン系の展覧会が増えていて、賛否両論ありますが、私は選択肢としてあってもいいと思っています。モノの実用性だけでなく、デザインから受ける「何となくひかれる」「あったら幸せ」という考え方が、豊かだなと思います。それと同じように、この議論で出てきた「ゆるやかさ」「曖昧さ」も、豊かな社会に通じるキーワードだと思いました。

議論のようす

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