視覚に障害のある人との言葉による美術鑑賞ハンドブック

百聞一見をしのぐ!?」

 

言葉による美術鑑賞 私の見方

印象のキャッチボール

新井 恵二
あらい けいじ

(自由業)

 日常会話から小説まで、言葉から場面を思い浮かべることは、無意識にせよ一般に広く行われていることです。小説では「描写」という技法によって、読者は微妙な人物の表情から壮大な風景までもを思い浮かべ、感慨を抱いたり感動したりします。絵画を前にした視覚障害者も、その絵について発せられる晴眼者の言葉によって、同様のことをするだけなのです。

 小説を例に考えてみましょう。描写の効果は想像力に依拠しています。そして、その想像力は個々の読み手の経験や記憶に依拠しています。つまり、一つの描写から喚起される印象は、厳密には読み手の数だけ多様になるわけです。

 換言すれば、印象とはとても個人的・主観的なものです。ある小説が映画化され、それを見た読者が感じる違和感はそのためです。映画には監督が受けた印象が表現されており、それは自分のものとは異なるからです。とは言え、そのことを知っていれば、その映画は監督の個性の表現として、むしろ楽しんで見ることができるのです。

 一つの小説という表現から生じる多様な印象の中から、一つの映画という表現が生まれ、その映画からも多様な印象が生じます。作品(表現)を介したこうした印象のやりとりは、その度にそれぞれの人の中で個性として変化し、広がってゆくことにこそ、その面白さがあると思います。

 絵画や彫刻などのアートの場合も同様でしょう。作家がある作品を制作する前提には特定の印象があり、それが作品という表現を介して鑑賞者の多様な印象を生む、そうした構造は上記の小説や映画の例と同じです。上述のように、表現された印象は、受け止められた瞬間、鑑賞者個々のものへと変化します。それゆえに、作品を介した「君の印象は?」という作者の無言の問いかけは意味をもち、鑑賞者の存在によって、表現は「作品」として成立することにもなるのでしょう。

 そして、鑑賞者が印象を表現するための最も身近な手段が「言葉」です。ある作品によって表現された作家の印象を受けて、自分のものを、同じ作品を見る他者に話し、またその他者のものを聞き、異同を楽しむ。それは作家のみならず他者を深く知ることであり、作品を介したこうしたコミュニケーションこそが、アートのもたらす最大の醍醐味の一つでしょう。

 それでは、言葉で印象を表現するにはどうすればいいのでしょうか。絵画鑑賞を例に、話し言葉でのそれを考えてみましょう。

 強調したいことは、主観的な感想を言うことの大切さです。上述のように、印象とは主観的なものだからです。冒頭で小説の描写の例を引きましたが、優れた描写には必ず描き手の思いを表す言葉や比喩が含まれています。図鑑の解説のように、純粋に客観的な言葉からは印象は生まれないと思います。無論、絵のサイズから画面の構成までの客観描写は必要です。しかし、絵と視覚障害者を前にすると、とかく客観にのみ終始し、自らの感想は個人的偏向と思い、伏せてしまうことが多いのではないでしょうか。それでは作品の前での印象のやりとりの楽しさは失われてしまいます。その意味で、印象を表現し合う複数の鑑賞者は必要で、そうしたやりとりを聞くことで、視覚障害者が抱く印象も豊かなものになります。

 小説家は書き言葉の利点を生かし、言葉をじっくり厳選できます。話し言葉ではそうした言葉の厳選は難しくとも、臨場感というその最大の利点を生かし、たとえ数語の言葉でも感想と描写の両方を用いるのがいいでしょう。感想が印象の骨組みを、描写がその肉づけを成すというのが私の意見です。

 最後に「印象」の構成が五感にわたることに触れておかなければなりません。つまり感覚の面で、印象を喚起するものとその印象とは、必ずしも同じではないのです。ご馳走の映像が味覚的憧れを、樹木の香りが視覚的記憶を誘うようなことはよくあります。それらも印象の多様化の面白さの一つでしょう。そして、視覚障害者の場合、その受傷年齢や障害程度、すなわち個々人の視覚経験の割合で、多様化はさらにさまざまなものになるのです。

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