視覚に障害のある人とのことばによる美術鑑賞会議 
報告書

 

見えない人と見える人

それぞれが観る世界と

ともに観る世界

「視覚障害者にとって」というテーマを掘り下げ
触る鑑賞との違いなどからこの鑑賞の特徴を探った

 

1.美術鑑賞に大切なもの

2.触る鑑賞との違いから

3.この鑑賞の障壁を崩すには

4.触る鑑賞の世界

5.よく観るためにともに見る

6.探るように観る

 

1.美術鑑賞に大切なもの

G1濱田*:視覚障害者が美術鑑賞するには、いかに想像力をつけるかがとても大切。うまく言葉で説明されても、経験度が低ければイメージを膨らますのは、難しい。だから子どもの頃からたくさん遊び、触り、五感を使っていろんな経験することが、絵を鑑賞するうえでも大事だと思います。コンパの活動でも、それが大切だと思っています。

 

R杉浦:それは、視覚に障害のある人に限った問題ではないかもしれません。大学からでは遅いかもしれませんが、私の大学では1回生から想像力をつけさせる教育をしています。

 

播磨:想像力は、世界を身体で受け止める体験を蓄積しないと生まれません。昨日の大内さんの満州の話に私も感動しましたが、この鑑賞では、身体に蓄積された記憶が言葉によって呼び起こされ、その言語で紡ぎ出された感覚を共有することで、感動が生まれるのではないでしょうか。身体で覚えること、身体と言葉は、美術鑑賞では重要であり、そのことを指摘している濱田さんの意見は、すばらしいと思います。

 

G3大内:この鑑賞では、突然、思いも寄らない考えを突きつけられ、人生で得た知識などすべてを駆使して言葉に乗せる努力をする。そこが、私がはまった理由です。

議論のようす 写真

以前、日本点字図書館で夕暮れの山の風景画を鑑賞したとき、見えない人が「ずっと思い出さなかった女学校時代の山形の風景を今、ふいに思い出し気持ちよかった。中途失明してから、それまで見てきた記憶を全部どこかに押し込めていました」とおっしゃったことがあります。

この鑑賞では、サポートするつもりでいた私たちと視覚障害者が相互に深く関係している。そこが美術館ガイドと大きく違うので、テーマとして視覚障害者にとって、晴眼者にとって、というものではないように思うのですが……。

 

G3ホシノ:両者に接点はあるけど、違いはあると思うよ。僕は見えない人の気持ちを知るためにアイマスクをしてみようという試みには、絶対反対。同じ気持ちになれるわけがない。「なってみよう」ではなく「もっとよく見てみよう」が大事だと思う。それは、「見ているものを、観えるモノとして感じる想像力を膨らませること」だと思う。

白鳥くん、2004年にMARの座談会で盲学校での美術教育について話したとき、「盲学校での視覚教育は、映像的現象(視覚的情報)を言語化せずに触覚的リアリティを追求する方向性なのでリアリティがない」という意見があったよね。たしかに、視覚障害者にとってのリアリティは、触ること。触ることが、想像で形になる感覚はあると思う。でも「遠くのビルが手前のビルより小さい」という映像的なビジュアルは、どう? 今までイメージできてなかった映像を理解できたりする感覚はあるの?

G3白鳥*:僕の場合、細かく追求せず、イメージや雰囲気で捉えています。なぜなら、まず、遠近法もグラデーションも知らないから。それを追求するとなると、時間がない。けれど、過去に見えていた人、日常的に色やビジュアルな話をしている人は違うと思う。

 

M森山:私は、分かち合えないことは大事なことだと思います。この鑑賞は、個が際立つ作業。視覚障害者でも一人ひとり違う。白鳥さんは、ディティールより相手の感情に寄り添う鑑賞を楽しんでいるけれど、自分の頭の中で再現したいと思っている人もいる。また、見えている者同士でも、同じモノを観ているようで、分かち合えないことがある。その違いがあるからイマジネーションや思いを喚起させる重要性があり、視覚だけでなく国や人種が違う人とのかかわりも大事になるのだと思います。

 

G2光島*:そう、視覚障害者によってさまざまです。昨日のデモも、グループのというより、個々の鑑賞です。

 

G2阿部:ビューでは、今、「いろんな人がいるのに同じやり方でいいのか」というのが、大きな課題になっています。活動当初は、「見える人と見えない人が同じ立場で楽しめる」と安易に考えていたのですが、実際は、参加者の鑑賞のしかたも活動に求めるものも、実にさまざまです。外出するきっかけにしている人、わずかな説明で晴眼者と同じように作品を捉えられる人、中には「説明を理解しなければ」というプレッシャーでやめてしまう人もいました。昔の感覚を思い出すからか、中途失明の人は風景画を比較的好み、晴眼者も鑑賞よりケアすることを喜びと感じている人もいて、全盲の人との方が鑑賞しやすいと話す人もいました。

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G2光島*:僕の場合、時々「観えた!」という瞬間がある。昨日のデモでも、後になってみれば僕の思い違いだとわかったのですが、そこがまたおもしろい。作品についていろいろ考え、あの絵は点図や立体コピーにした方が理解しやすいな、とも思った。けれど、最初から点図や立体コピーだったら、インパクトがなく素通りしていたかもしれない。ライブで言葉のやりとりに苦労しながら観る方が、入って来る。この鑑賞は、話しながら何かを構築していくおもしろさがあるのです。でも、解説的なものを望む人もいるので……。ビューの活動では、いろんな方に対応したいと考えています。

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2.触る鑑賞との違いから

R廣瀬*:言葉の鑑賞が苦手な立場から、二つ感想を言わせてください。

まず、濱田さんの「視覚障害者の五感をどう育てるか」について。最近、特別支援教育の導入で盲学校の生徒が減っていますが、統合教育で一番見落とされがちなのが、体育と美術だと思っています。私が盲学校でよかったと思うのは、体育の授業。当時は、いろいろやらされ嫌だったが、統合教育だったら、あれだけの経験はできなかったと思う。一方、美術では、いまだに普通の教科書しかなく、二次元、三次元という基本概念は教えていない。しかし、国に期待していても変わらないと思う。

次に、この鑑賞について。鑑賞グループがそれぞれ工夫をして教える、教えられるという関係からの脱却を目指していることや、晴眼者にとっての、言葉にしたり理解を深めたりすることの意義やおもしろさはよくわかります。が、昨日のデモでは私自身、この鑑賞にフラストレーションを感じました。それは、好き嫌いというより向き不向きなのかもしれません。私が最初に美術鑑賞を体験したのは、米国での彫刻を触る鑑賞で、「どう感じる?」と聞かれても、ボキャブラリー不足で情けない状態でした。芸術的センスや言葉による鑑賞の経験が少ない私には、光島さんのように自分から質問したり発信したりすることは、とても難しいことです。

そもそも、見えない人と見える人の情報量にはフライ級とヘビー級ほどの差があり、その両者が、言葉による鑑賞で試合、つまりコミュニケーションするにはせめてフライ級をミドル級にする必要があると思っています。そのために、どこかの時点で立体コピーや点図があった方がいいと思います。また、両者の差を埋めるためにも、先程話した美術教育を充実させる必要があると思います。

M池尻:フライ級とヘビー級は対等ではないが、この鑑賞ではクロスカウンターパンチが入ることがある。相手の言葉で、本当は観えていなかったことにハッと気づかされたりする。そこが、双方のおもしろ味になっていて、でも毎回、パンチがヒットするとは限らないところが、またおもしろい。説明に終始してしまったり、すごく会話が盛り上がったり、沈黙しても充実した時間を過ごせたり……といろいろです。

議論の様子 写真

この鑑賞を続けている人たちには、いい試合ができたときのように「互いに鑑賞できた」という感覚があるのだと思います。しかし、光島さんが言う「観えた!」というものを、普段から見ることを知っている自分は実感として確かめることはできない。昨日のデモの際、僕は下を向いて一緒に言葉から絵をイメージしようとしたのですが、結局、目で確かめると、その印象が勝ってしまうことに気づいた。そのとき、あらためて今の社会は、視覚が強い世界であり、無意識にほかの観方を排除しているのでは、と思いました。

だからこそ、盲学校での視覚教育、感覚を共有する分野が大事だと思いますが、視覚障害もいろいろ。この鑑賞に参加した友人の盲学校教師から、「言葉を自在に操れること自体、すごいことなんだよ」と言われました。盲学校には、視覚障害のほかに知的障害、聴覚障害など、さまざまな障害のある子どもたちがいる。言葉を使ってコミュニケーションできる子どもと、それが難しい子どももいる。その盲学校へ、この鑑賞をどのように提案していくのか、課題だと思います。

司会:廣瀬さんから「情報量が違う」という発言がありましたが、伝えているのは情報なのか? 視覚的な情報を伝えたら観えたことになるのか? また、光島さんの言う「観えた!」という実感とはどういうことなのか? 後半の議題に関連するので、そのとき話し合いたいと思います。

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3.この鑑賞の障壁を崩すには

M渡辺:盲学校について。私の勤める美術館では、1994年から毎年、申し込みのあった小中高、特別支援学校に、約20点の収蔵作品を持参する鑑賞会をしています。2001年に県立盲学校から初めて申し込みがあったのですが、目的は学芸会の保護者向け。そこで、盲学校用のプログラムをつくって実施しました。盲学校の生徒の多くは重複障害。当時、美術は音楽の教師が兼務で、授業も校内の銅像を触らせる程度でした。

 鑑賞会では、一人の重複障害の男の子が、叩くと音の鳴る作品『夢のタムタム』をユニークなリズムで鳴らし、先生やみんなで盛り上がり、その後、盲学校では廃材でつくった楽器を「タムタム」と名づけ、楽しんだそうです。

そして、そのユニークな彼は美術館の鑑賞ツアーに来てくれました。美術鑑賞に来ている意識はないようでしたが、初めての展示室で、ホシノさんといろんな話題で会話が弾んでいました。

 鑑賞する内容に好き嫌いがあるのは、見える人の場合も同じでしょうが、自由に鑑賞する機会に差があることが問題だと思います。

 

R日野:私が毎週、授業を見せていただいている香川県立盲学校には、大変熱心な美術の先生がいます。赴任された当初から、手本となる教材もなく生徒も少ないなかで、一人ひとりに対応しながら10年近く、盲学校での美術教育のあり方を積極的に試行錯誤し続けています。しかし、盲学校では、生活の自立を目指した世界認識のための教育が第一義で、感覚や感性、感情の教育にはなかなか到達できないのが現状のようです。私は最近、見えない人と見える人とで行う美術鑑賞には二つの段階がある、と考えるようになりました。まず、「どのような作品か知りたい」という見えない人の要求に、見える人が支援する段階。見えない人が、触れることによって作品の実態を知りたい、と思うのは当然の欲求です。先の盲学校の先生が生徒さんを美術館へ引率して行われる鑑賞の授業も主に触る活動で、言葉だけの鑑賞では当然不十分だということでした。したがって、触れることが許可されていない絵画(平面作品)鑑賞の場で、この第一段階において見える人が話すべきは、触れて認知できることに相当するような客観的な説明でしょう。

議論の様子 写真

 そして、見えない人がある程度作品を知った次の段階が、池尻さんの言われた「クロスカウンターパンチ」。相手の言葉から、気づかされたり、感動したり、物語を頂いたり……。これは、感情や感性のレベルで見える人と見えない人が互いに体験を共有していく段階だと思います。

 また、私は、この鑑賞を広めていくためには、二つの概念崩しが必要だと考えています。一つは、先程お話した「美術は難しいから言葉での鑑賞はもっと難しい」という概念(思いこみ)。もう一つはこの鑑賞を特別支援視覚障に害のある人のためのプログラムとして捉える概念です。この鑑賞は、見える人と見えない人とが体験の質としてはまったく同等に感動を享受できる点でアートの本質的な可能性と同時に見える人と見えない人との新しい関係を切り開いていく可能性も持っているのに、安直に支援の手段として捉えられてしまう傾向があり残念に感じています。

 

G3ホシノ:すごく、わかる。MARを続けるなかでかわるがわる考えてきたことが、今の言葉で少し整理できたような気がした。現代社会の中では「最短で効果的に伝わる方がいい」とする方向にすぐに偏ってしまう。例えば、描かれた線を言葉で説明するより、立体コピーで触れるようにした方が「早いしわかりやすい」と。しかし、白鳥くんは「それはいらない」という。でもそれが、この鑑賞。これは「現実よりも冒険の中で生きている」ことだと考えています。

冒険とは、ちょっと先の未来。そのことに気づいてから、MARは、おもしろさを共有して終わる一時的な活動ではなく、少し長い冒険の船旅の準備をし始めている、と思うようになりました。例えば「最短で伝わる情報が本当なのか?」と探求するのが、船旅です。しかし、教育や美術館での現場では、「そんなの思い違いじゃない?」と、すぐに引き戻され、また目の前の情報を伝えようと、テクニックやスキルに陥ってしまいそうになる。でも、想像力・創造性を考えたとき、どうなのか……。

この鑑賞は、想像のゲームのように、思いをやりとりするコミュニケーションです。それには、どうしても誤解がつきもの。でも、誤解をなくそうとすると、また情報のやりとりに陥ってしまう。そこで、僕は「誤解を認め合う関係でいい」と最初は考えたけれど、数年して「いや、誤解の先にも何かがある」と思い、今は「誤解のあることを前提に伝えよう」と考えています。伝え方は、相手や自分の成長によって違って、果てしない。

そんな長旅につきあいたくないという人ももちろんいるけれど、果てしない冒険者たちであるおもしろさに少しずつ気づいている人が出てきています。

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4.触る鑑賞の世界

白鳥*:触る世界は、見えない人が生きるうえで重要です。僕も美術を触ることから始めるのはいいと思う。安心するし、何かの助けになるならできる限り触れるようにした方がいい。

じゃあ、なぜ僕が美術鑑賞で触ることにこだわっていないのかというと、まず「見えない絵画をどうやって観ようか」と考えたとき、見える人との違いが前提になっていると、作品にも人にも近づけないと思ったからです。差がありすぎてとても困難。そこで「もっと共通点を探そう」と思った。それが「鑑賞を楽しむ」という辺りのこと。見えない構図や色や形は限界があるので細かい追求をしないと決め、触ることをやめて「その先に行きたい」と。それがホシノさんの言う「冒険」。「先には共通することがあるはず」と信じて目指している。

MARの活動当初は僕も全盲の人は誰でも同じようにこの鑑賞を楽しめると思っていたのですが、簡単ではなかった。何を求め、何を楽しいと思うかは、人それぞれ。今はこの鑑賞で「触れないモノをどう感じるか、どう共有するか」というジャンルがあってもいいのではと思っています。

盲学校では、視覚のことをもっと教えてほしかった。何が見えていないのかを知らなかったから。鑑賞の会話を通して、色の名前とか、いかに見える世界を知らないかを知った。そのことも重要だと思っています。

M渡辺:「ゆるやかさ」にも通じる話ですが、アートにも正確さやスピードが求められている情報化社会では、多様化し過ぎて「視覚障害者と言葉で美術を鑑賞する」と聞いても「え?」どころか「あ、そう」と関心すら持たれない状況にあるのかな、コミュニケーションの回避かな、と不安になります。だから、見える人も見えない人も同じハンディの中で学ぶことで、それを突破する力が持てればな、と思いました。

G2光島*:僕も白鳥さんと同じく見える人との差を感じ、盲学校から大学に進学したときは、大きなカルチャーショックを受け、「一緒に何かできないか」という気持ちでこの鑑賞も始め、今は対等とはいかないまでも、いい関係になれているなと思っています。

視覚障害者の多くは「触らないとわからない」という意識を持っているので、「言葉での鑑賞」と聞いても、うさんくささを感じて参加してくれない。そこが、ビューの活動のネックになっています。

廣瀬さんは、見える人とは情報量に差があり、言葉での鑑賞でそれを乗り越えるのは難しい、と発言していましたが、廣瀬さんほどコミュニケーション能力がある人が、なぜこの鑑賞に抵抗感を感じるのですか?

R廣瀬*:白鳥さんや光島さんと思いは共通ですが、方法論が違うだけ。決して言葉による鑑賞を否定しているわけではありません。ただ、「視覚障害者にとって言葉による鑑賞がベスト」という考えが広まるのは危険だと思い、この会議に参加しました。

僕は、「触る」にこだわっていて、暗い部屋で晴眼者と木彫を触り感想を言い合うワークショップなど、2005年から触る奥深さを発信しながら見える人とコミュニケーションする活動を行っています。

触る鑑賞は、見える人見えない人が、平等に情報を発信するチャンスがある。情報は、感想などを含む広い意味です。一方、言葉による絵画鑑賞では、先に見える人がジャブを出し、次に見えない人がカウンターパンチを狙うといったようにスタートラインに差がある。そして僕は、平等にパンチを出したい方なので、言葉だけの鑑賞は、自分には合わないと思っています。

 

G2光島*:よくわかりました。触る鑑賞に関連して。先程、ホシノさんはアイマスクを否定していましが、僕は、見えない困難さを経験した方が、見えたときの驚きや喜びが大きくなるので、ワークショップでは時々、アイマスクを取り入れています。しかし、僕自身は、それを体験できないので、差を感じていました。しかし先日、手をモチーフにした陶芸作品を、言葉で説明してもらい、その後、触って鑑賞してみたら、イメージとの落差があっておもしろく、「アイマスクを外したときの喜びはこういうことか」と知りました。廣瀬さんは、活動のなかでそのような経験はありますか?

R廣瀬*:事前に配った資料に書いたのですが、触るワークショップでも言葉で表現することも重視していて、博物館の収蔵品を触って、言葉で表現し言葉から想像する試みをしています。

G3白鳥*:全盲の人でも「触る鑑賞」に向き不向きがあり、上手な触り方があると思うのですが?

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R廣瀬*:あると思います。2006年に国立民族学博物館で『触れると触る』という企画展をしたとき、詰めかけた視覚障害者の中には、「もういいだろう」と思うくらい触るのが下手な人もいて、盲学校の触る教育の怠慢さを感じました。

 その企画展のとき、「触るマナーかきくけこ」をつくりました。軽く触る、気をつけて触る、繰り返し触る、懸命に触る、壊さないで触る。最後が一番大事なマナーですが、「懸命に触る」には、一生懸命触ると発見があるという、視覚障害者にも健常者にも共通するメッセージを込めました。

 

G3白鳥*:僕が、廣瀬さんの活動に期待したいのは、上手に触る方法の推進。盲人に対する触察能力の開発です。僕の場合は、触るのも言葉で観るのも並列に考えているのですが、「触る」についてどこまで追及しているのかを知りたい。盲人が触るのは必然で、触って周りの空間を認知することから始まり、生きる手段です。で、その先に何があるのか。研究が、どこまで行っているのか知りたい。触ることも、もっと発展してもらいたいと思っています。

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5.よく観るためにともに見る

G3大内:視覚障害者だけでなく晴眼者も触りたいと思っていますよね。触察から受ける感動も、普段忘れているな、と思いますね。でも、ほとんど触れない。

R塩瀬:公立はこだて未来大学の生態心理学の先生で、ご自身も盲導犬ユーザーである伊藤さんとルーブル美術館で『ミロのビーナス』を触って鑑賞したときに、触ってわかる適切なサイズがあり、言葉で観てわかることと触ってわかることがあるなと思いました。

見える人と見えない人では情報量が違うという話がありましたが、問題は量でなく情報の質だと思います。例えば、見える人がヘビー級のグローブを持っていても、パンチがめちゃくちゃで、相手に当たらない場合もある。また、ヘビー級同士では、互いに観ているつもりになってグローブを動かさず、実際得ている情報にズレがあっても気づかない。それが問題です。

見えている人と見えない人で鑑賞したときには、気づきがある。また、見えない人にナビゲートしてもらわないと、何を見ているのかわからないことも多いです。

この鑑賞に対して、よく情報工学・科学の人から、「じゃあどれくらい伝わったのか」と愚問を投げかけられますが、そもそも鑑賞は、写真と比べるものでもなければ、測れるものでもない。問題は「鑑賞の体験をどう持ち帰ることができたか」だと思います。僕はこの会議で、それぞれが、どこで「観えた」という実感が得られるのかを、知りたいと思っています。

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司会:「何を持って帰れたときに満足するのか」は、活動を測るのにいい問いだと思います。

M梅田:普段、視覚に頼っている晴眼者同士で触る展覧会に行ったときは、まず「作品に触れた」という感動が大きく、次に「手触りがどうこう」という会話に終始して、体験や記憶が呼び起こされるような鑑賞には至りませんでした。触ることで世界を認識している方たちは、触る鑑賞が記憶や経験と結びつき、嬉しい悲しいという感情が呼び起こされたような経験はありますか?

G1濱田*:僕は、言葉の鑑賞より触る鑑賞の方が、自分の原体験とピッタリくる場合が多いです。やはり、触る方が楽です。言葉で観ることも好きですが、想像することは疲れます。30分が限度です。ギャラリーコンパでは、触る鑑賞もやっています。有名な彫刻家の抽象的な作品で、想像と説明と合致したとき、触って自分なりに理解できたことに感激しました。

 

G1松尾:コンパでは、匂いや音へと鑑賞の幅を広げていますが、触る鑑賞の際は、美術館から「見える人は触らないで」と言われたこともあります。でも、見える人が触っても、なかなか話が弾みません。触感が先に来て、形からイメージが膨らまないのです。ちなみに見えない人とは、絵画同様、彫刻でも抽象の方が盛り上がります。

 

G2光島*:これまでの発言を聞いていて、触る鑑賞も言葉による鑑賞も、誰かと一緒に鑑賞することがポイントだなと、あらためて感じました。触る鑑賞でも、一人では作品の印象に残らないことが多いです。先日も、兵庫県立美術館の『美術の中の形』で、「触れます」とあっても一人なら何の手がかりもなく素通りしていたような彫刻が、相手がいたことで印象に残る作品になりました。そのときは学芸員二人。以前なら知的な言葉に合わせ相づちを打つだけでしたが、この鑑賞での経験の蓄積もでき、白鳥さんのように相手に揺さぶりをかけるような質問をしたので、よけいにおもしろい鑑賞になりました。

 

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6.探るように観る

M北村:美術館は当然、公共施設として視覚障害者にも開かれていなければならないので、宇都宮美術館には建設時から振動する杖で展示ルートを誘導するシステム*が設置されています。しかし、職員か周りの人に誘導してもらった方が早いと言われ、実際には使われていない。また、視覚障害者からの要請もあり、意識の高い学芸員が一部の絵画の立体コピーや点字解説をつくっていますが、実際の利用は、年間5組程度です。

それで、「開かれた美術館にしていくためには、触察や誘導システムだけでは十分でない」と思ったとき、私はMARと出会いました。しかし、この鑑賞のワークショップをしたら、視覚障害者には非常に評判が悪かった。「言葉での鑑賞って何?!」と。

そこで今は、言葉による鑑賞と触察とのミックスでワークショップをやっています。言葉と触察の順序はいろいろです。うまくいっているかはまだわかりません。

美術館でのワークショップや昨日のデモを見て私が思うのは、「晴眼者の方が見えない人を必要としている」ということです。晴眼者は恋するようにこの鑑賞に参加している。また、触察と言葉による鑑賞は少し次元が違うと思います。

議論の様子 写真

G1石田:触察についてですが、絵画療法では参加する精神疾患の人に対して描く道具を考慮します。5Hと5Bの鉛筆では描いたときの感触はまったく違います。ボールペンもクレヨンも、紙に描くときの触覚がそれぞれ違い、タッチも違うので、描き手は視覚と一緒に触覚を探る過程を経ながら一枚の作品をつくる。つまり、つくり手も、触覚を楽しみ苦しみつくっているので、絵の鑑賞者にも、そこを知りたいし探りたい、見るだけでなく触ってみたいという欲求が生まれるのだと思います。

 

G3白鳥*:触察で感情や記憶が呼び起こされることも慣れで、全盲に限らず経験が多い方が言葉にできると思います。「盲人だから触るだけでいい」という一般的なイメージには流れてほしくない。ただ、視覚障害者の多くは触ると安心すると思う。僕の場合、美術鑑賞では一緒に鑑賞する人のひじを触ることでその思いを達成している。僕にはひじに触る実感が大切で、「彫刻に触れてよかった」という満足感に近いと思います。

G3ホシノ:僕も、白鳥さんに触られて心地よいと感じる。赤ちゃんがお乳をつかむように、自然に触れる感じに近い。人とのダイレクトな交換で、言葉のやりとりに通じると思う。

 

G3大内:現代人は忘れているけれど、触覚は根源的な感覚なので、取り戻したいと思います。

R塩瀬:生態心理学者のギブソン*は「触れるように見る」と言っています。触覚と味覚は、対象との距離がゼロになることで、触れるとは、ただ手をつけるだけでなく、動かして探ることです。

僕たちは、目で見てわかった気になっているが、それでは対象と近づけていない。本当にわかるためには「探るように見る」ことが大事だということです。

言葉による鑑賞では、その「探るように観る」ことをしている。言葉のやりとりで探ること、言葉にすることでちゃんと観ることをしています。
また、触る鑑賞も、探るようにしなければ観えてこない。そう考えると「手で触る」も「言葉で観る」も、同じ方向へ向かっていると思います。

 

R井尻:これまでの発言で「対象に近づきたい」「横の人とも近づきたい」という話が出ていますが、「近づく」にも物理的な距離とそうでない意味があると思うのですが。

 

R塩瀬:一緒に見ていても、観えたものが違えば、人と「近づけた」とは思わないので、物理的な距離とは別に「一緒に観えた感」というのがあると思います。それは、見える人見えない人でも違うと思うので、その辺を知りたい。

 

R日野:ビューの鑑賞ツアーで『フンデルトヴァッサー』展*へ行き、塩瀬さんがガラスケースの中の建築模型について話していたとき、だんだん私も建築の空間に入り込み、見えない人と共有しているような感じになりました。

ところが、あるとき突然、塩瀬さんはその建築模型がどのようなガラスケースに収められているのかという展示の説明をされたので、私の気持ちも同時にケースの外に出てしまいました。

見えない人にとって、こうした状況説明は支援の意味合いで必要かもしれませんが、作品(表現)そのものと私たちの距離は離れます。反対に、表現内容について語り合っているとき、私たちは作品に接近しています。

このような作品との距離感は、ともに鑑賞し、場を共有している人同士の距離感にも比例するように感じました。

 

M森山:友人が手相を見てくれたとき、なぜかそれが心地よかった。それは、多分私に向き合って私の話を聞いてくれた心地よさ、安心感なのかなと思いました。その感じと一緒に観ることがつながるような気がします。

人と一緒に観ること自体、まだまだ美術館では受け入れられていません。「一緒に観る」という観方があることを伝え誘うには、どうすればいいのかなと日頃考えているところです。

 

ここまで。下記より補足情報

*振動する杖で展示ルートを誘導するシステム

美術館のエントランスから受付までの間、白杖が床の仕組みに反応して振動し、あるポイントを通過するときは音声も加わって、トイレの場所などを案内する視覚障害者支援システム。

 

*生態心理学者のギブソン

ゲシュタルト心理学の影響を受けながら、生態学的知覚理論を提案したアメリカの知覚心理学者(1904-1979)。知覚が個人の中だけで起こるのではなく、環境が大きな役割を果たすことをアフォーダンスという概念で示した。

 

*『フンデルトヴァッサー』展

『人と自然:ある芸術家の理想と挑戦 フンデルトヴァッサー展』は、2006年4月11日〜5月21日まで京都国立近代美術館、6月10日〜10月29日までメルシャン軽井沢美術館で開催。当展では、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー(1928-2000)が生涯にわたり思想・表現の根幹として追究した自然と人のかかわりをテーマに、初期のドローイング、水彩画からミクストメディア、タペストリー、木版画、オブジェ、建築模型に至る、技法の枠を越えた膨大な作品を展開。ミュージアム・アクセス・ビューは、2006年5月7日、京都国立近代美術館で同展の鑑賞ツアーを行った(見えない人、見えにくい人9名・見える人22名)。

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