視覚に障害のある人とのことばによる美術鑑賞会議 
報告書

 

新たな鑑賞が育つ
市民と美術館のあり方とは

市民活動として展開するこの鑑賞と
美術館との関係などについて語り合った

 

1.市民と美術の新しい関係

2.美術オタクの学芸員と哲学する市民

3.ともにつくる開かれた美術館とは

 

G2光島*:午前で「視覚障害者にとって」という議題は語り尽くせたと思うので、美術館の話に移っては?

M梅田:この言葉による鑑賞の特色がはっきりしないので、鑑賞なのかコミュニケーションなのか、少し整理した方がいいと思うのですが……。

M森山:鑑賞について探ってみては? 対話型鑑賞*ワークショップの参加者ですら「自分も話さないといけないの?」という方が多い。私は「美術は知識を得るもの」と思い込んでいる人たちにも、「作品との自分なりの接点」を持って帰ってもらいたいと思っています。その手がかりになると思うので……。

1.市民と美術館の新しい関係

司会:鑑賞もコミュニケーションも、次の議題に上がっています。まず、皆さんがこの会議から何を持って帰りたいのか、という意見を出してみてはどうでしょう?

G1松尾:私は、最近コンパの活動が、美術鑑賞から離れてきている理由を考えるためにも、まず、美術館側がこの鑑賞活動をどう思っているのか伺いたいです。

M渡辺:逆に私は、鑑賞グループ側の要望を伺いたいですね。実際に鑑賞へ行く際、美術館に何を求めているのでしょうか。

太田:市民は、美術館に要望する立場でも、対立する立場でもないと思います。しかし、数年前、美術館を調査した際、「こんな質問には答えられない」とアンケート用紙を送り返してくる美術館もあったのです。市民と美術館との間に大きなズレがあると感じたので、「視覚障害者は美術館の対象外ではない」をアドバルーンとして、この活動を『百聞は一見をしのぐ!?』というハンドブックにまとめ、美術館へ送りました。

G3ホシノ:僕は、市民と美術館に大きなズレがあるとは思わない。これまで、MARで、いろんな美術館を回り、ほかのグループとも課題や思いを共有しながら、違った形で核分裂してきた。けれど地域の自主性にゆだね、独自性のみしか育たず、共有するつながりがない気がする。だから僕たちが共通言語を選び出す必要があると思う。

 

播磨:それにはまず、社会や時代の変化をふまえないといけないと思います。

今、ようやく市民社会が形成され、公平性や平等を重視する社会になりつつある。障害者も市民であり、この鑑賞活動は「自分の美術を見つけよう」という市民の文化力です。

一方、美術館の多くは専門領域にあり、市民は学ぶ側というスタンスでいる。しかし、行政からの予算の締めつけもあって美術館も変わらざるをえない状況にきている。つまり、存続の理由を探さないといけない。そこで、市民社会とのソーシャルインクルージョン(社会的包摂)、いかに公共性を担保するかが重要になっています。

行政からすれば、美術館は文化資本へ売り渡したいお荷物かもしれない。しかし、美術をすべて民間資本に任せていいのか? さらにマイノリティーが排除される可能性が高くなるのではないでしょうか。

だから市民側からもっと美術鑑賞に対し「公平性や平等は譲れない!」と言わないといけないと思います。

この鑑賞活動でも「どこに公共性や市民性を担保するか」が重要です。多様性を認めつつも「なぜこれをやるのか」という意識の共有化が大事。好きだからしている、美術館に受け入れてもらうというスタンスでは活動は拡散して消滅へ向かってしまう。市民社会を形成するためにも「公共性のある美術館をどう打ち出すか」といった美術館と共闘する戦略をみんなで持たないといけないと思います。 

この討議でも社会変化を意識して、鑑賞の方法ではなく、「言葉で鑑賞すること、感覚を共有することが何のためにあるのか」を突き詰めていかないと議論は拡散していくと思います。

G3ホシノ:僕は今、美術への普遍的な価値と個人の価値を分けて考えていくしかない、と思っています。僕は、好きか嫌いかで作品に向かい合いたい。しかし、見えずに好きかどうかも言えない人がいる。また、好きか嫌いかわからずに言葉で伝えられない晴眼者もいる。その、それぞれの問題に直面して、なかなか普遍性の価値観の問題にたどり着けないでいました。

今、僕がかかわっている静岡アートギャラリーのワークショップ「心でみるツアー」でも、視覚障害者団体と組むことにいき詰まりを感じています。無形に組織してしまった場合、コアがなくなってしまう。その先にあるものを、見つけたいと思っているのですが……。

 

太田:MARの活動は、「視覚障害に特化した活動ではない」というメッセージが、とても伝わりづらい。市民の立場で、美術館と共闘して、「美術館がなくなっては困る!」と活動したいのですが、視覚障害者サービスとして捉えられ、美術館からも「視覚障害者に対応しているのに来館者が少ない。いろいろな人がいるなかでは、視覚障害者への対応の優先順位は低くなる」という反応が、返ってきてしまう。

 

播磨:その「美術館と共闘」という言い方は、私の先程の発言もそうですが、厳密には正しくない。そもそも、公立の美術館は誰のもの? 市民のものです。しかし、美術館はそう思っていない。そこに大きなズレがある。

美術館が市民のものである以上、市民も美術館のあり方に参画しないといけない。意見を言い合いクリエイティブな関係を築いていく、そういう意味での共闘が必要だと思います。

 

G3ホシノ:ゆるやかな革命かな。

 

播磨:美術館だけでなく「行政とは何か」など、あらゆる場面に共通する問題です。市民社会の台頭と連鎖して、今、市民社会を抜きには文化的公共施設は成り立たない時代になっています。

それから、ユニバーサル、つまり普遍性には「画一的な普遍性」と「差異に敏感な普遍性」の二つあり、我々は視覚障害者との差異に敏感に反応していく普遍性を、目指さないといけないと思います。そのためには、もう少し言葉を精査して組み立てていかないと、堅い壁は打ち破れないように思います。

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2.美術オタクの学芸員と哲学する市民

R井尻:白鳥さんのように美術館との関係を持とうとする市民は例外で、多くの市民は、ただ作品を見たいから美術館に行っている。「美術館は誰のもの?」という問いには関心がないと思います。

 

M池尻:学芸員も、作家や作品を研究し真剣に普遍的な何かを探求する日々、また展覧会を生む日々のなかで、「作品を鑑賞する」ということに関心を抱いていない人も多いと思います。だから、美術館と市民が鑑賞で共闘する関係を築くのは、簡単なことではないと思います。

 

M吉岡:私は美術館側の人間として、市民社会の新たな可能性を、一緒に見いだしていければなと思っています。美術館の敷居の高さは、美術は「難しいもの」という前提でその研究に夢中になっている学芸員の責任。それを「難しいものがわからなくても楽しめる」というこの活動に崩されるのが怖い。だから、そこが対立するとわかり合えないと思います。かといって「美術館側が開く」というのも違うような気がしています。

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R井尻:誤解があるといけないので、「難しいものがわからなくても楽しめる」という点について、MARでは活動の入口ではそれを前提にしていますが、「難しいものがわからなくてもいい」とは思っておらず、鑑賞のなかで難しい課題を見つけ、それを解くことを楽しんでいます。

 

G2阿部:ビューの鑑賞ツアーの際は、美術館から「相談は学芸員へ言ってください。でも特別には何もできません」と言われることもありますが、なかには進んで解説してくださる学芸員もいます。解説は違うかなと思い断っていましたが、鑑賞のなかで疑問が出てくるので最近は、鑑賞の後に質問させてもらっています。しかし、説明が始まると自分の知識を語る学芸員も多いので、つきあい方が難しい。でも、美術館と繰り返し話すことが大事だなと思っています。あと、いつもミーティングスペースがあるといいなと思っているのですが……。

 

M北村:ミーティングスペースは、美術館の企画に絡んでいないと難しいでしょうね。すべての市民活動には対応しきれない。ただ、あきらめずにどんどん質問を投げかけ相談していけば、頭が固い美術館側の意識も変わっていくと思います。

最近、多くの美術館でギャラリートーク*をやっていますが、これは完全に作品の解説です。一方この鑑賞は、解説ではなく、相互のコミュニケーションの問題が絡んでくる。そのことに私は衝撃を受けました。

学芸員の多くは美術オタクで、純粋に知識を人に伝えたいと思っている。だから説明も一方通行になりがちで、この鑑賞には向いていないと思う。昨日のデモでも、私自身解説したくてウズウズしていました(笑)。だけど、話せば理解できるはずだし、活動に踏み込まずに協力もしてくれると思う。

美術館の側からMARの鑑賞をやろうとして失敗した経験から、私は市民グループにはゲリラ的に扉を叩く存在になってほしいと思っています。学芸員は、それに驚きながらおどおど答えていく関係がいいのかなと。ぜひめげずに、理解する学芸員を育ててほしいと思います。

 

太田:鑑賞ツアーは、市民として鑑賞に行く当たり前のことをしているだけなので、MARでは美術館に事前に連絡はせず、あえて美術館に期待も要求もしないことを信条にしています。でもビューの事前に連絡することは、この活動を社会に広めることにもなっている。そのかかわり方は、すばらしいなと思いました。

 

M北村:私がこの鑑賞に興味を示す理由はMARが美術館でやっている活動、起こっているコミュニケーションが、哲学的な意味で刺激的だからです。その存在自体に、今まで美術館がしてきた作品解説という一方通向の鑑賞のしかたに風穴を開けるような可能性を感じています。学芸員としての私のゴールは、その鑑賞を美術館が組織してやるということではないような気がしていて、むしろMARの活動を言語化し、それが言語の好きな学芸員たちに伝わればいいのかなと思っています。

 

播磨:北村さんがおっしゃる通り、この活動は、とても哲学的です。「作品がわかった」「わからなくてもいい」「ゆるい」……などまさに哲学的な問いです。ある学者は、「『わかる』とは、分析することや自分流に解釈することではなく、わからないまま引き受けること」だと言っています。

その哲学的なことをサラリと市民レベルでやっていることに意味があり、学芸員の知性もそこに反応しているのでしょう。ホシノさんが冒険者とおっしゃっていたように、市民が新しい世界に分け入っているところが、この活動のおもしろいところです。

だから、「言葉による鑑賞」を特化するのではなく、また、視覚障害者が美術を楽しんでいることにもとどまらず、その奥深いところに入っていることを考えることが大切。美術や美術鑑賞を通して、日常のなかにある「人間とは何か」、人間のありようなど謎解きみたいな問いが浮き出ているのです。

そのさらに深いところへ分け進み、整理立てていくことを、市民だけでなく学芸員や教育者もやる必要がある。また、市民がやるには言葉を獲得しなければならず、そのために学芸員が手を貸すことが大事だと思います。

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3.ともにつくる開かれた美術館とは

R塩瀬:今、美術館側も観る側も「こうしなければならない」というプレッシャーを持っていて、その「ねばならない」という脅迫観念から双方が逃れるには、何かを変えようとするよりも、「こうしてもいい」という鑑賞のレパートリーを増やすことも有効だと思っています。

 以前、公立はこだて未来大学の先生で盲導犬ユーザーの伊藤さんとフランスへ行った際、オルセー美術館では触る許可が出ませんでしたが、ルーブル美術館では許されました。スケッチをする人、しゃべりながら観る人など、いろんな鑑賞が許され、美術館側の懐の深さを感じました。もっとも、『ミロのビーナス』を触っていると、しばらくしてお客さんに「いい加減にあっちへ行け」と言われ、『モナリザ』の前で長々と鑑賞していたら、美術館の人に「あなたたちだけの美術館ではない」と言われたことがあります。どこまで許すかを判断しないといけないのは大変だと思いますが、一つの方法を押しつけるのではなく、鑑賞の入口がいくつも用意されて方法論が増えれば、観る側と美術館や作品との距離は、もっと近づくと思います。鑑賞と言えるかはわかりませんが、私は見えない人と言葉や触る鑑賞をすることで、美術史の知識は増えないけれども、作品と近づけるようになりました。

 

木村:公共性や自由や平等とは、どういうことなのだろうと考えさせられました。学芸員が専門性を市民に開くということは、多種多様な条件に合わせて対応する余裕を持つことだと思います。また、市民は権利を主張するだけではなく、公もそれに応じるだけでなく、塩瀬さんがおっしゃるようにそれぞれの人のニーズに応じて選択肢を増やすことが大事だと思いました。

 

M森山:私たち市民一人ひとりに、よき美術館をつくる権利があり、その権利について意見する人たちに代表される声に耳を傾けていかす視点が、大事だと思います。

水戸芸術館にはボランティア組織があるのですが、そこでは、職員も含め会社社長も若者も肩書きを抜きに同じ一市民という立場になり、コミュニケーションを通して違う価値観を投げかけられます。その市民がフラットな関係のなかで、いかに自分らしく動けるかを試される。美術館は、そういったフラットな関係で自分が試される訓練の場でもあると思います。また、作品に向かうと「私の考え」を持たないといけないので、ある主婦の方は「ここで“私”ができました。社会やさまざまな分野に興味を広げるようになりました」と言いました。学芸員としても、そういうことが嬉しいと思っています。

播磨:市民とは「自律」と「協働」の精神を兼ね持つ人のことです。だからクレーマーは市民ではない。問題意識を持ってシステムを変えていこうとするのが、市民のスタンスです。やり方を提案したり、自分なりの美術や芸術を追い求めたり。その延長で言えば、市民社会のスタイルとは、一人ひとりが自分の好きなものを自分の好きなように表現すると同時に、他人の好きなことにも敬意を払って尊重することだと思います。

大阪大学の鷲田清一先生の受け売りですが、神戸のある精神科医は、「ユニークI(アイ)とワンオブゼムの間の危ういバランスのなかに安心して安らぐことがこれからの生き方ではないか」と言っています。「ユニークI」は、かけがえのない私。でも、ワンオブゼムにもなる。その間を行き来すること。つまり、誰かが常にリードするのではなく、例えば、専門家と市民や見える人と見えない人が反転すること。昨日のコンパの鑑賞でも、見えない濱田さんがポーカーの絵の説明を聞いて、「人生は紙一重という意味では?」と投げかけた言葉に僕は驚かされた。ちゃんと観ている。そのとき、立場が逆転した。

この鑑賞は、ドラマトゥルギーがあり、演劇的要素を含んでいるのだと思う。だからおもしろい。しかし、刺激的なドラマを求め、逸脱する恐れもある。だが、ホシノさん流にそれを狭く限定することもないのかなと思いますね。

 

司会:最初から「市民」という人がいるのではなく、市民もつくられていくもの。市民も市民になる場がないと市民になれない。美術館はその練習の場という森山さんの話は、とても腑に落ちました。

 「公共の場」という大きなフレーズも大事ですが、美術館には、感性に働きかけるたくさんのファクターがあり、その小さな装置をうまくいかしながら、自律的で協働的な人を地道に増やしていける場所ではないかなと思いました。

また、専門家と市民に関して、哲学の専門家という立場から言うと、専門家はわりとコミュニケーション下手で、その意味では弱者なので、ワークショップなどではその不自由さを助けてもらいたいし、おだてたりしてもらえると、もっと能力が伸びると思います。

 

G3大内:褒められて伸びるのは、市民の側も同じ。プロに受け止めてもらえると嬉しいし、ちょっとした言葉で、鑑賞が深まることがある。互いに受け止め合えると幸せだと思います。

 

ここまで。下記より補足情報。

*対話型鑑賞 

知識の伝達を重視する解説型の鑑賞方法に対して、ナビゲーターの誘導により、グループ内で自由に発言することで作品との接点を持とうとするコミュニケーションを重視した鑑賞方法。日本ではニューヨーク近代美術館(MOMA)のメソッドが90年代に紹介されてから知られるようになった。

 

*ギャラリートーク

企画展や常設展の実際の作品の前で、学芸員が観客に作品解説をする。最近では、事前に教育を受けたボランティアがトークを行う場合もあり、一方向ではない対話型のトークも増えてきている。

 

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