視覚に障害のある人とのことばによる美術鑑賞会議 
報告書

 

この鑑賞の発展と活動の未来に向けて

 

この鑑賞における視覚障害者の役割や市民活動としての
あり方、展望、課題などについて語り合った

 

1.見えない人からのアプローチ

2.自立した市民活動へ

3.活動の社会化に向けたネーミング

4.活動休止から学ぶこと

5.活動を続けるための課題・問題

6.言語の壁を越える難しさ

7.学校への普及、作家への発信

8.見えない人の参加を増やすには

 

 

司会:最後の議論では、未来に向けて、いかにすれば活動を続けていけるか、人を巻き込めるか、について議論したいと思います。

太田:いかにこの鑑賞を広げられるかが、この会議の一番のミッションです。システムという言葉に引きずられずに、どうしたら人に伝えられるか、について議論したいと思います。

1.見えない人からのアプローチ

G3大内:原点に戻って、なぜ、私たちが言葉による鑑賞を続けているのか考えてみたのですが、アートが対話を求めている気がする。しかし、私たちはシャイなので人に話ができない。が、そこに視覚障害の人が入ると、どうしても言葉に乗せなければならない。耳を傾けてくれる人がいることで対話を引き出してくれる。MARの活動でだんだん楽しくなってきたのはそこ。視覚障害の人の感性を通して言葉が返ってくると、パッと開ける。それがナビゲーターにもなり、私たちの財産にもなっていると思います。

 

G1石田:『星の王子さま』に、大人の目から見ると帽子の絵が描かれているとしか見えない子どもの絵が、実は描いた子ども自身にとっては、蛇が象を丸飲みした様子を描いた絵であるという話が挿入され、「大切なことは、目に見えないんだよ」と語る場面があります。それと同様に、私はアートの鑑賞とは、見えないものを観る体験で、視覚障害者と一緒に観ることは、そこに描いてあるものの先にある世界を一緒に観ることに結びつける体験だと思います。

 

司会:視覚障害の人がナビゲーターになりうるか? について意見はありますか?

 

G2光島*:以前は、一参加者として鑑賞ツアーに参加する受け身でしたが、アメリア・アレナスの対話型鑑賞にナビゲーターがいると知ってから、その役割を意識しています。以前は無意識でしたが、鑑賞の触媒としての役割を意識して、言葉を投げかけ見える人の言葉を引き出したり刺激したりすることも、最近はおもしろいなと思っています。やりすぎは不自然ですし、予習をして知識を持ち、それを語らずところどころで問いを出すようなアレナスのナビゲートはできませんが、ある程度鑑賞の経験を積んだ見えない人が、それとは違う形で自然にナビゲートしたり、ワークショップをしたりする可能性はあるなと思っています。

 

G3白鳥*:光島さんがビューの鑑賞で長く受け身だったという点には納得できます。僕が美術館で鑑賞を続けてきて、早く抜けたかったのは、その点です。しかし、抜け出た先は、ナビゲーターではないと思っています。

まず、受け身の状態は心地よくなかった。見える人に見えた情報を話してもらうことは、違いを埋める作業であり、時間や労力が費やされる。それは、無駄ではないが、その先へ行ったらもっと心地よいものがあると思っていたので、早くそこへ行きたかった。

そこへたどり着きたくて、僕がとった方法は、見える相手との共通点を探すことです。まず、相手の気分や言葉に乗る。自分の主張のボリュームを下げる。意見を言わずに相手に話してもらい、話し方や知っていることから共通点を探って、そこから話を始めることにしました。それが、仲よくなる秘訣。基本的には恋愛と同じです。

違いを強調するのではなく、共通点を探し、できるだけいい関係を目指すことで作品にも興味が持てるし、相手の話にも入っていける。手っ取り早く、ある場面では見える相手と対等になれる方法だと思っています。

廣瀬さんは、触覚なら晴眼者と対等になれると言っていましたが、僕は触察能力が対等ではないと思う。対等と言うなら、もっと触察能力を追及して、広く触察のすばらしさや未来像を提示してほしい。

言葉による鑑賞には、未来像があると思う。と言っても、言葉にはできないが、そんな実感が僕にはあります。言葉にするのは僕の役目ではないので、実践していきたい。

見える人、見えない人の両者とも「溝がある」という先入観を持っていて、それを埋めるきっかけが、この活動にはあると信じています。この活動でたどり着くであろう先の鑑賞には、見える人見えない人の差はない。この鑑賞を続けている人には、その実感があると思う。だからそこへ行く手前でつまずかず、先に行ってほしい。

 

G2光島*:白鳥さんの方法は、カウンセリング的。感情に焦点を当て、聞くことに徹していると思います。僕もそれをまねようと思ったけれど、鍼治療も相手の気持ちを理解する仕事なので、鑑賞でも同じような立場でいるのは、しんどい。だから、鑑賞では、吐き出す方に回りたい。アレナスのようにシャキシャキと元気よく語ったり、揺さぶるように問いかけたりするのもおもしろいなと思っています。受け身的でない方向は白鳥さんと同じだけど、性格も違うし、いろんなやり方があると思う。

 

R廣瀬*:「対等」についてですが、スタートラインとして、触る鑑賞は見える人と対等になれることがあると言っただけで、触る鑑賞が見える人と対等になれるという意味ではありません。言いたかったのは、言葉による鑑賞には向き不向きがあり、自分は触る鑑賞の方が向いているということです。多分白鳥さんと目標はだいたい同じで、方法論が違うだけだと思います。

 

G1濱田*:白鳥さんの主張はよくわかります。僕も好かれたいから、人に合わせている。僕は体験主義で、ボキャブラリーもないので、このような難しい議論を重ねるより、実践したい。

 

このページの一番上へ

2.自律した市民活動へ

M岡崎:ナビゲーターになりえるかに関連した話で、先日、2歳のときに全盲になった半田こずえさんから、「色のワークショップを企画したい」という提案がありました。計画はこれからですが、「色を見たことがない彼女がどう色を獲得していったか」ということから「色って何だろう?」と問うことで、本質が見えてくると思っています。視覚障害者が伝える言葉は本質的なところを言い当てていて、広く訴える圧倒的な説得力を持っています。そういった視覚障害者から発信する試みが重ねられることも、この鑑賞の広がりにつながると思います。

議論のようす 写真

また、「ゆるさ」は豊かな関係性ですが、美術館とユーザーとの安心できる関係を保障するためには、やはり物理的心理的バリアをいかに取り払うかを、考えていく必要があるなと思いました。

播磨:会議全体の感想になりますが、ある臨床心理の人は「きわめて私にこだわれば、きわめて社会的になる」と言っています。この活動も、視覚障害の人の個人的なこだわりから始まり、公共的になっている。見える、見えない、言葉、触る……といった入口論を語っていますが、皆さん共通して全体性の回復を求めている。白鳥さんが目指しているのもそこかなと思いました。

昨日の宮本さんの「これは教養なのか?」の答えになるかわかりませんが、教養とは「人の心をわかる心」だと思います。美術史を知っていることが教養ではない。そのリベラルアーツを育てる場が美術館でしょう。しかし、美術館の機能では限界がある。そのことを鑑賞グループが言い当てていて、新たな役割を果たそうとしている。

その役割とは、「フリンジ」です。例えば英国の大劇場の下にはたくさんの小劇場があり、そのフリンジが重要な役割を果たしています。孤立している美術館がフリンジを持つことで、リベラルアーツの拠点になれる可能性がある。それにはフリンジとなる可能性を持った市民グループをどう育てるか、また、鑑賞グループは美術館のフリンジとして自律できる組織としていかに育つかが課題でしょう。

その自律するポイントの一つは、対等な人間関係をつくること。信頼の構築です。二つ目は、違いを尊重すること。白鳥さんが言うように、違いを強調するのではなく、共通点を見つけるゆるいつながりをつくること。三つ目は、ルールをつくる。廣瀬さんの博物館に触るルールをつくる試みもそうですね。四つ目は、異質なもの(人)を排除せず開かれていること。五つ目は、批判的かつ創造的な精神を持つこと。クレーマーではなく、市民としてシステムを変えることに参画することが大事です。

以上が、皆さんが語っていたことだと思います。

インクルーシブデザイン*では「User/consumer as producer(利用者/消費者はプロデューサーである=プロシューマー)」と言っていますが、美術館が市民社会と連携してそのあり方を模索するとき、来館者として十把一絡げに捉えず、市民を新しい社会をつくるクリエーターであり美術を享受する人でもあるという、二つの役割を持った多様な美術鑑賞者、ユーザーと捉えてほしいと思います。

このページの一番上へ

3.活動の社会化に向けたネーミング

太田:この鑑賞を広めるためには共通のネーミングが必要だと思っていますが、会議のタイトルにした「視覚に障害のある人とのことばによる美術鑑賞」はこの鑑賞を言い当てているか、伺いたい。「ことばによる美術鑑賞」という言葉が持つ危うさもあると思うのですが……。

G2光島*:いつも迷うのは「言葉」というワードです。「対話」なのか「会話」なのか「おしゃべり」なのか迷い、結局「言葉」を使っています。

 

G3ホシノ:僕は、言い当てられるわけがないと思う。けれど、やらないといけないと考えています。この活動を社会化しないと、この鑑賞の広がり感をなくし、活動が道草をしているような感覚になってしまうので。

 

M北村:「言葉による」にも違和感がありますが、一般的に美術館で「鑑賞」に関心があるのはエデュケーターの方なので、「美術鑑賞」とあるとキュレーターが自分たちには関係ないと思ってしまう可能性が高く、美術館に浸透しにくくなると思います。ただ、抜いてしまうと意味が伝わらないですよね。

 

司会:意味が伝わるようにどこをゆるく、どこをきつくするかだと思います。

太田:「ミュージアム・アクセス」や「ギャラリートーク」という言葉もありますが。

 

G3ホシノ:「アクセシブル・ミュージアム」とかね。

 

司会:「言葉による」は入れた方がいいでしょうか?

 

R日野:いろいろな立場があるので絞らずに、「もう一つの美術鑑賞」「新しい美術鑑賞」などはどうですか? この鑑賞は、本質に帰る鑑賞ですし、ソフトな印象の方がいいと思います。

 

村井:鑑賞している様子を見ていると、明らかに言葉だけではないですよね。本物の作品の前を歩き、また、そこから受けているものは、言葉だけではないと思います。作品の存在や場も受けている。

 

R井尻:私は修論のテーマを「ともにみるということ」としました。まだ漠然として煮詰まっていませんが、「鑑賞」や「言葉による」に限定したくないし、特に「視覚に障害のある人」という言葉を入れたくなかった。その言葉に晴眼者がセットされていると解釈できても、どうも違うように思っています。また、この鑑賞では、濱田さんの「自分の居場所があると感じた」や、白鳥さんの「生きているという感じがする」という意見にあった「鑑賞のライブ感」や「体験を重ねていくときの実感」も大事だと思います。

 

R廣瀬*:この会議では、触る鑑賞などほかの選択肢に触れていないので、「ことばによる」を入れた方がいいと思います。

 

司会:この場では決まらないと思うので、この会議報告書では、ひとまず「視覚に障害のある人とのことばによる美術鑑賞」でいくことにしたいと思います。

このページの一番上へ

4.活動休止から学ぶこと

司会:誰に向けてどう語れば伝わるか。続けるためにシステムをどうつくるか。やめないために何に気をつけたらいいか。失敗例から学ぶということもあると思いますが。

 

M渡辺:富山では2005年に鑑賞グループ「ミュージアム・アクセス・とーくる」を立ち上げましたが、現在はゆるやかな休止状態です。その要因の一つは、当時NPOやまちの活性化企画の支援が盛んで、補助金が得られたのですが、それを使って人集めするのがノルマのようになってしまったことです。鑑賞ツアーのほか、塩瀬さんの講演会などもやりました。鑑賞には経費はかからないので、主にチラシでの広報に使いましたが、お金を使って活動せねばならないことがかえって負担になっていたと思います。また結局、主な推進役が美術館の人間で話し手が育たなかったことも要因だと思います。美術館の人間は、どうしても鑑賞や会話をコントロールしてしまう。また、美術館のプログラムになりつつあり、グループの活動意欲が低下したと思います。

議論のようす 写真

 それらの要因の根源には地域性の問題もあります。視覚障害者の来館手段、自家用車がなければアクセスが不便な地域でいかに来てもらうかが常に大きな課題。早めの広報が必要でも天候に左右されるもどかしさがいつもありました。

 現在でも、見えない方から個別に問い合わせや来館があり、活動してほしいという晴眼者の要望もありますが、鑑賞は最終的には個別の行為。グループをつくる必要があるのか? 私自身、見えていません。白鳥さんのように個人で鑑賞したい人もいれば、恥ずかしいからみんなで鑑賞したいという人もいる。また、私自身、学芸員という立場を越えて、自分の気持ちを言葉にして一緒に鑑賞できるのか、という疑問もあり、「とーくる」としてのツアーは休止状態が続いています。

 

G2阿部:個別に対応してもらえる美術館があるというのはうらやましいです。それだけで、いいと思いますが……。渡辺さんのようなエデュケーターは、どこの美術館にもいるんですか?

 

M渡辺:たぶんエデュケーターという肩書の人は、日本の美術館に数人しかいないと思います。私の美術館には、都道府県の美術館では唯一、作品の研究をするキュレーター(学芸員)の学芸課(5名)に加え普及課(5名)があり、私はエデュケーターではありませんが、普及課で同様の仕事をしています。PR不足なのかもしれませんが、当館では普段から、障害者に限らず子どもから老人まで各ニーズに対応し、私自身、美術館を社会へ向けて開いていきたいと思っているので、いろんな鑑賞者を受け入れることは特別なことではなく、だから、あえてプログラムにする必要があるのかなと思っています。

 

M梅田:私の美術館は学芸員が2名なので、展覧会広報、企画、普及など担当を分けずにすべてやっています。小規模美術館では、活動に興味を示してくれるかは、学芸員個人の資質によると思います。

このページの一番上へ

5.活動を続けるための課題・問題

R井尻:3グループは、活動を続けていくためにこの会議から何を得たいと思っていますか?

 

G2光島*:ビューの活動を続けるうえで、まず運営費の問題があります。資金源はツアー参加費500円と私の絵ハガキ一枚200円の売上で、主に通信費に充てています。富士ゼロックス端数倶楽部の寄付でイベントをしていますが、助成金を得ると事務仕事が大変になるので、今はいろいろ模索している段階です。

また、一番の気がかりは、この会議へ参加してないスタッフとの意識のギャップ。対話の記録など、知的な試みへの抵抗があるスタッフもいる。案内文の書き方一つそれぞれ違い、意見したいときもあるが、今は口を出さずに任せています。

あと、美術館の対応について、以前は、学芸員が個別に応対してくれるのはいいと思っていましたが、おおげさな対応になることもあるので、今はグループで自由に鑑賞できる場合と両方あればいいなと思っています。

 

G2阿部:ビューの中では、自分たちの活動に自信が持てるようになるまで5年かかりました。日野さんが活動を文章にまとめてくれたことが、自分たちの活動がわかるきっかけになり、自信になりました。今は、鑑賞ツアーのコーディネーターが4〜5人、ワークショップの担当が光島さん含めて3人と役割を分担していますが、スタッフが増え個性が違うので、今後どうやっていくかが課題です。その次に資金の問題があります。

 

G1松尾:コンパでは、参加者をいかに集めるかが一番の課題です。資金は年1回福岡市文化芸術振興財団の2〜3万円のみですが、問題点は、お金よりスタッフと時間が足りないことです。

年間スケジュールに1〜2件でも美術館側から提案された展覧会の予定が入ると告知もしやすく、あとは自由な企画を入れられるので、年間何回かでも美術館側がプログラムをやってもらえるとありがたいです。それから、事務局がなく見えない人を駅までの迎えることもボランティアの負担になっているので、美術館が窓口になってもらえると助かります。

外からの視点で書いてもらった文章や、活動を伝える資料があると、また、何年かに一回でもこのような集まりの場に呼んでいただけると嬉しいです。

美術館のボランティア養成講座に呼ばれワークショップをした際、大変喜ばれました。多くの美術館でこの鑑賞を体験する機会が増えればいいなと思っています。

 

山口:MARの場合、参加者の半分以上は初めての人で、20代や学生、美術検定を受けている美術好きの年配女性が多いです。参加者へは、鑑賞にルールはなく、ボランティアでないことを伝えるようにしています。学生の多くは、MARの活動がゆるやかだからではなく、鑑賞に期待を感じ、その先に何があるのか興味を持っているようです。初めての方には、日常にMARで味わったライブ感や、未来に向けての信念みたいなものを持ち帰り、人と人との間で共有してほしいなと思っています。私自身は、この活動に美術鑑賞を超えたコミュニケーションの場としての可能性があると思っています。

 

G2光島*:MARは、エイブル・アート・ジャパンに属しているので事務所やミーティングの場があるのでうらやましいと思う。エイブル・アート・ジャパンには、ぜひこの鑑賞を伝える共通のチラシを作成してほしい。

G3ホシノ:この会議で、新しい考え方、美術館とのかかわり方など、いろんな意見が出ていたが、どうしても現場の感覚が抜けてしまう。事例報告でさえ、同じ気持ちになれない。しかし、伝えにくい事柄だけど続けることに意味があると思う。人と会いアクションを起こすことが大事で、活動を続けていこうとしている人が集まる会議を続けた方がいいと思う。視覚障害者も、子どもも、いろんな人が参加して、直球あり、変化球あり、いろんなパターンに変化するような、ゆるやかなネットワークを構築したい。実践者の意識を持つべきだなと僕は思います。

 

司会:横のネットワークが続ける原動力になる場合もありますよね。

このページの一番上へ

6.言語の壁を越える難しさ

G2光島*: 先日、香港で鑑賞ワークショップをやって失敗しました。タッチアートがメインの企画だったこともあるのですが、通訳にこの鑑賞の意図が伝わらず、絵の説明に終始してしまいました。外国人や子どもなどへこの鑑賞を広げるヒントになるような、うまく伝える案があれば教えてください。今後この活動を、視覚障害者に限定せず、ほかの障害を持っている人などへも広がっていくような形で続けていければな、と思っているので。

 

M池尻:美術館の鑑賞ボランティア*と出会ってみてはどうでしょうか。新しい可能性が見えてくるのではと思います。言葉を使って美術を楽しもうとしている人たちで、地域間でゆるやかな集まりもできつつあります。世田谷美術館ではボランティア個々の鑑賞スタイルを尊重しているので、この鑑賞に興味を示す人も出てくるのでは、と思います。

この鑑賞は、美術の観方を視覚障害者から提案したことが僕はすごくおもしろいと思っています。

 

太田:言語の違いに関連する話で、沖縄県立博物館・美術館の設立準備段階の企画として呼ばれて鑑賞ワークショップを実施した際、僕らには「丘」にしか見えない絵を、地元の見えない人が、すぐに(沖縄の年配の人なら誰でも理解できる)祭祀に使われる特別な場所だと言ったときに、文化や世代の違いで共有できないものがあることを痛感しました。それと同様、言葉では尽くしきれないものがあるように、言語が違う場合は、相当なエキスパートが入らないと伝えきれないだろうと思います。

 

司会:でも「違いをいかす」ということがこの鑑賞のモットーであれば、「わからない」と言えばいいということもありますよね。

 

太田:美術的な情報がある場合と似ていて、言語の違いを埋めようとすることには、難しさがあると思う。

 

G3ホシノ:それは、言語障害の人や知的障害の人とどう観るかという課題に行き着く問題だと思う。

 

G1石田:僕は『旅する絵本カーニバル』など展覧会の企画運営をしている側でもあるのですが、そのなかでギャラリーコンパをやる場合、やはり子どもたちに伝えること、特に子どもへ通訳する立場である先生や親に、この鑑賞のおもしろさを伝えることがとても難しいと感じています。子ども時代に美術館体験があるかないかで伝わり方が全然違うので、盲学校で美術展やギャラリートークをやっていくアクションが大事だと思っています。

このページの一番上へ

7.学校への普及、作家への発信

学校への普及では、教育へ取り込まれる方法と、学校へ出向く方法、両方あると思いますが、学校現場でこの活動を伝えるための問題についてご意見ありますか?

 

太田:意見ではありませんが情報として、MARが学校現場に呼ばれたのは過去1回だけです。5年前の八王子盲学校での先生向けレクチャー&デモで、そのときの一人の先生が葛飾盲学校に転勤になり、最近、親向けのデモをやってほしいという依頼がありました。

 

R日野:学校への普及は、難しい問題だと思います。学校関係者や研究者には、この鑑賞を、特別支援教育の一手段とかボランティアガイドであると捉えられてしまうことが多いため、媒介となる先生としっかりコミュニケーションをとって意識を確かめないと、子どもたちへきちんと伝わらないのではないか、という危惧があります。学校関係の方々や研究者も、この鑑賞を何度か実体験してみれば、そうではないとわかるとは思いますが。

 

G2山田:小学校の「芸術鑑賞会」はほとんどが演劇で、感想文を書かせても生徒が何を書いていいかわからない場合が多いので、この鑑賞の出前を紹介して、絵画の鑑賞を自分の言葉で「おもしろかった」と言えるような美術館経験をさせてあげられたらすてきだなと思います。

 

M梅田:女子美術大学の講義で鑑賞プログラムの紹介をした際、アーティストを目指している学生たちの反応が一番大きかったのが、この鑑賞でした。「私の油絵は見えない人に鑑賞してもらえないと思っていたけれど、言葉で観てもらえるなら嬉しい」と言ってきた学生もいて、作家への発信も大事なことだなと思っています。

 

司会:この鑑賞は、「鑑賞自体が表現である」という点でも、アーティストが興味を示してくれると思います。

 

太田:アーティストの長崎剛志さんは個展のハガキに「見えない人と一緒に見られます」と書き続けていますが、そんなアーティストが増えたらいいなと思いますね。

 

このページの一番上へ

8.見えない人の参加を増やすには

G1濱田*:「美術鑑賞」といっても人が集まらないので、僕はアロマテラピーのワークショップで見える人見えない人のグループをつくり、そこからこの鑑賞につなげるような試みをしたいと思っています。

 

M池尻:MARに参加する見えない人の年齢は高いと聞いていますが、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」*のボランティアには若い見えない人が多かったです。ボランティアからは、見える人との立場が逆転するところにやりがいを感じているといった声も聞かれました。

 

ホシノ:エンターテインメントだからでしょう。

G2光島*:それも、東京だけの特殊な事情だと思います。

R井尻:まず、見える若いボランティアが多いので、見えない若い人が集まるということがあると思います。また、MARの鑑賞では、見える人と見えない人とが関係性を築くことからはじめるのに対し、ダイアログ・イン・ザ・ダークの場合は、ビジネスとしてシステムに基づいたマニュアルがあって、見えない人がナビゲートし、見える人がそのボランティアをするという役割や、見えないことを楽しめるように案内することが決まっています。そういう点で、若い人が入りやすいのだと思います。

都美術館での鑑賞会のボランティアも、それに似ていて、マニュアルがあり役割や接し方や時間が決まっている。だからMARへ参加する人が少ないのだと思います。

 この鑑賞での見えない人のナビゲーター的役割は、私も大事だと思いますが、「ナビゲーター」としてしまうと役割名になり関係性が決まってしまう。それによるマイナスの働きもあるのではないのかと思います。

司会:光島さんから、ナビゲーターの後継者を育てたいという話も出ていましたが。

 

G2光島*:ビューの活動で、見えない人の代表が常に僕になってしまうはよくないと思っているので、活動をナビゲートするという意味で、ほかの見えない人をもっと巻き込んでいかないといけないなと思っています。

 

G3白鳥*:僕もそう思います。いろんな意見を持った視覚障害者が参加することが大事だと思う。

 

G2光島*:そのためには、今後は、もっと視覚障害者の団体にも顔を出したり関係を持ったりしていかないといけないなと思っています。

 

M森山:ある盲学校の先生に「白鳥さんはスーパー盲人だからね」と言われたことがあるのですが、この鑑賞を広めるためには、ここにいる視覚障害の方たちのように、長い年月をかけ活動をゆだねられる「意識的アウトロー」を育て増やしていくことも大切だと思います。

議論のようす 写真

このページの一番上へ

ここまで。下記より補足情報

*インクルーシブデザイン

これまで除外されてきた人々を包含(インクルード)して、社会的にも商業的にも価値あるデザインを目指す考え方。デザインプロセスの早い段階から、障害者など特別なニーズを抱えたユーザーを巻き込み、より広いニーズに対応した製品・環境を生み出す手法をいう。

 

*鑑賞ボランティア

北九州市立美術館(1974年〜)を草分けに、特に90年代後半から各地の美術館で導入されている。解説型、対話型などさまざまな手法があり、世田谷美術館では1997年より主に区立小学校の4年生を対象に、子どもの声を聞くことを重視した鑑賞活動を実施している。

 

*ダイアログ・イン・ザ・ダーク

1989年、ドイツで始まったワークショップ形式の展覧会。参加者は視覚障害者スタッフ(アテンド)に案内され、暗闇の空間を体験する。日本では、NPO法人ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンが運営。

このページの一番上へ

  

<前のページへ

もくじへ

次のページへ>

(C)エイブル・アート・ジャパン ※無断転載を禁じます

 

 

このページの一番上へ