|
2.言葉による美術鑑賞グループによる感想
G1濱田庄司*
G1松尾さち
(JOY倶楽部プラザ アトリエ
ブラヴォ美術指導員)
G1石田陽介(ソーシャル・アートセラピスト/九州大学USI子どもプロジェクトアドバイザー)
G2
光島貴之* (アーティスト/鍼灸師)
G2
阿部こずえ
(ミュージアム・アクセス・ビュー代表)
G2山田裕子
(大学院生)
G3白鳥建二*
(マッサージ師)
G3
ホシノマサハル
(コミュニティーアーティスト/アートディレクター)
G3大内秋子
(日本語教師)
※G1はギャラリーコンパ(福岡)。G2はミュージアム・アクセス・ビュー(京都)。G3はミュージアム・アクセス・グループMAR(東京)の略です。*印しは視覚に障害のある参加者です。
G1濱田庄司*
(鍼灸師)
まず、ほかの鑑賞グループのことを直接知りうることができ、刺激にもなり、それぞれの立場にいる人の話を聞けて、とても得ることが多くありました。会議に関しては、途中から何が何やら分からない感じで、一体どこへ進もうとしているのか、分からなくなる場面もありました。私自身に問題があったとも思うのですが、それは、私だけだったのでしょうか?
そもそも、この大きな目的を2泊3日で行うのは……。それでも、今回の議事録や質疑応答の文書を読むと、進むべき方向には向かってはいるなと思いました。が、やはり、このような会議を数年積み上げてこそ、大きな目的に達せるのではないのでしょうか。
そのためには、もっともっと直接的・間接的な情報共有とコミュニケーションが必要だと思います。何かと困難とは、重々承知していますが……。
私たちギャラリーコンパも会議以来、よい方向というか手ごたえを少し感じていて、一つのステップアップの大きなチャンスではないかと思っています。そして、私自身も人の手を借りてちっちゃな構想を頭の中で巡らせています。
私はこの会議に参加して、あらためて手法や思い、個性はそれぞれでしょうが「文化芸術」は嗜好品のようなもので、楽しくなければイヤ、おもしろいのではなく「おもしろがらなければ」と思ってもいます。それが、私の持論です。見落とされがちですが、つまり、進むべき方向は、そういうことではないでしょうか?
G1松尾さち
(JOY倶楽部プラザ アトリエ
ブラヴォ美術指導員)
会議に参加してから数カ月、とても有意義だった、刺激的だったと思いながらも「ではこうしよう」というはっきりとした自分の考えが浮かびきれませんでした。視覚障害者の義務教育段階でのアートへの働きかけや、視覚障害者の集まる場所や団体への参加を促すような働きかけは、我々ギャラリーコンパがいずれどこかで、あらためて今より大きなアクションとしてやらねばならぬことと感じました。でもその前に、この地に帰って来て「アート鑑賞のやり方やツール自体にもっといろんな参加者が共鳴する何かを見つけたい」という思いの方が強くなっていきました。どんな立場の人もそれぞれに、求める何かにちょっとでも出会えるような内容ややり方が実はすぐ近くにあるのに、まだ見えて来ていないんじゃないか。今まで障害者との活動を仕事としてきて、ある部分が分かりやすいことはとても大切なことだと感じています。
そう思うタイミングにギャラリーコンパをあちこちでやろうという人や場所に恵まれました。今回2か月の間に4回、県外の美術館から小さなギャラリーまでいろんな場所で、呼びかけ方から集合のしかた、音楽を入れたり写真展だったり日本画を触ったりと、いろんなやり方を試してみようと思います。その中からこれからのヒントが見つかればいいなと思っています。
私たちはとても小さなのんびりしたグループですが、言葉による鑑賞だけでなく、五感を使った、ときには言葉にならない鑑賞(つまり共有体験だけ)も含めて、それからアートを介さない直接的な人との出会い(コンパ)も含めて、広がりと深まりを楽しみながら、活動の方向を探って行きたいです。
G1石田陽介 (ソーシャル・アートセラピスト/九州大学USI子どもプロジェクトアドバイザー)
盲ろう者で東京大学教授である福島智氏は、視覚と聴覚をまったく失った自身の体験から「人間にとって一番大切なことは、コミュニケーションである。他のすべてがあっても、人とのコミュニケーションがうまくいかなければ、人間は生きていけない。コミュニケーションできれば、それだけで生きて行ける」と語られた。また美術評論家の建畠晢氏は「相手を理解するべき努力は最大限するべきだが、限界もある。そうした限界を超えて、共感や驚きを抱けるのが芸術の力ではないか」と語られている。つまりアートは三項関係においてコミュニケーションを成立させるという点で‘Joint
Attention’(共同注意)としての術であると言える。
三項関係とは、自己―他者、自己―モノとの二項関係を超えて自己と他者がモノ(媒介物)を共同化する関係をつくることであり、まさしくコミュニケーションそのものである。そうしてアートというものは「共同注意」において人類の中で最も有効なモノのひとつと言えるのではないだろうか。
鑑賞ワークショップとは、そうしたコミュニオン体験を、アートを介しながら枠組み化していく社会に開かれた遊戯なのであろう。
江戸時代には「連」が都市文化として発生し、感性価値をともにする人々が職業、身分、年齢を越え集まり、共有地(コモンズ)を数多く築いた。そこでは俳句・書画・園芸・観劇など、リベラルなアート系サークルが隠居層の養生文化と強く結びつき、現代へと続く日本文化の中核を築いていった。鑑賞ワークショップの広がりは、今後の地域コミュニティ再生化に向けたアクションとしても大きな可能性を秘めていると私は感じている。
G2
光島貴之* (アーティスト/鍼灸師)
会議に臨んでの課題は、「視覚障害者は、言葉による鑑賞のナビゲーターたりうるか?」だった。今、この問いは、「意識的なナビゲートは、本来の言葉による鑑賞のよさを妨げないか?」に変貌しつつある。個人的には、積極的に会話を導くことで、鑑賞の質が高まることを実感している。
「盲学校では、重複障害の子どもが増えている。言葉を自由に操れる子どもは少ない」と言われることがある。だから、言葉による鑑賞は困難だという結論になってしまうのだが、はたしてそうだろうか? この辺りを何とかクリアできれば、また新しい展開が見えてくるだろう。ぼく自身、盲学校時代に見える人との会話がとても苦手だったのだが……。
見えないことをうまく利用して、新たな鑑賞のスタイルができていきそうな予感と、それをいろんなやり方で助けてくれるツールだという自覚も出てきた。
G2
阿部こずえ (ミュージアム・アクセス・ビュー代表)
同じく試行錯誤しながらそれでも活動を続けているMARやコンパの話を聞けて励みになった。地域ごとの特色の違いがおもしろかった。
今回、一番すっきりしたことは、美術館とのかかわり方。美術館の事情や、学芸員さんの個々の心情などを伺うことができ、美術館のことを全然知らなかったことが分かった。法人でもないし、会話をするのでうるさくなってしまうので、必要以上に萎縮してしまうときと、言葉の鑑賞のおもしろさを絶対知ってもらいたい、見えない人と見るのだから声を出すのも当然だ、と妙に強い気持ちになるときもあり、いまいち立ち位置や関係性が分からなかった。播磨さんの言われた「市民」として対等にかかわればいいと分かった。学芸員さんの知識やアイディアを頂いたり、ビューからも何か提案してもいいのかもしれない。
今後の課題。まだビューのことを知らない見えない人/見えにくい人に、案内や情報が届くよう地道に努力する。見える人は、学芸員やアーティストなども含め、いろんな人を意識的に巻き込むようなプログラムも考えていきたい。創作ワークショップと鑑賞ツアーを分りかやすくリンクさせるようなことや、見えない人がナビゲートする鑑賞や、子どもとの鑑賞などにも挑戦したい。
G2山田裕子
(大学院生)
今回の議論のなかで、教育現場(特に学校)や保護者への発信、子どもたちへの鑑賞の普及について何度か取り上げられていたことが印象に残っています。
近年、指導要領改訂の目玉として、PISA型読解への問題意識から「読解力」「表現力」が取り上げられていますが、言葉による鑑賞にはこれらの力の育成に何らかのヒントになるのではないかと考えています。例えば言葉で表現しながらイメージを構築していくことやコミュニケーションの中で自分なりに答えを見つけることは、国語にもありうることですし、「日常の中にある『人間とは何か』、人間のありようなど謎解きみたいな問いが浮き出ている」という指摘(播磨さん)や、「自分の表現について自分に語れるようになること」の重要性(日野さん)は、学問すべてに言えることではないでしょうか。
けれど議論中でも出たように教育という場の特性から「これが鑑賞である」と思ってしまう危険性をはらんでいることもまた事実です。それに対してMARやコンパ、ビューの市民団体から提供されるというアプローチは、「楽しい」場としての鑑賞を可能にする場だと思います。美術という媒介を通して、コミュニケーションを楽しむことができるということ、1点の作品を懸命に見ることのおもしろさがあることを経験として知る場としての期待を感じました。
議論の論点と少しずれているうえ、具体性に欠けますが、社会から期待されている一つの見方として読んでいただけると幸いです。
G3白鳥建二*
(マッサージ師)
言葉を使って鑑賞するワークショップにかかわるようになった頃、「この活動の未来に何を望むか」というような質問をされたことがあります。僕は、いろんなことを望んでいるような気もするし、ほとんど大して期待していないようにも思う、と答えました。この気持ちは、今でもあまり変わっていません。
一つ分かっているのは、僕は形にこだわっていないということがあります。例えば、一つの絵画を言葉にする時、全体的なことから細かな事柄に話を進めてゆくのは、盲人が絵をイメージする時の一つの手段にすぎません。そもそも、美術作品でなければならないという理由はなく、公園に行き草花の話をしてもいいではないか、という意見にもうなずいてしまう部分があります。
では、結局何を望んでいるのかというと、他人とちゃんとかかわりを持ちたいということなんです。作品鑑賞であれば、「この場所でこの作品を前にして、あなたと鑑賞できて本当によかった」という実感です。これは言葉で説明して理解してもらう種類のものではなく、実践して感じてもらうことなんだと思います。
そうして何かしら気づいた方々が、それぞれの立場で次の行動を起こしてくれる。あるいは、その思いを大事にしていてくれる。僕が伝えてゆきたいのは、お互いにかかわり合って満足する鑑賞ができた時の、幸福感とかありがとうという気持ちです。
だから、これからも以前と同じように、単独で美術館へ行く活動も続けるつもりです。時々ではあるにしても、そこにはすばらしい出会いが待っていてくれるからです。
G3
ホシノマサハル (コミュニティーアーティスト/アートディレクター)
このような会議が最終的に「誰のために向けて行われているのか」という問いかけに対しては、「いまだこうした鑑賞の方法に出会ったことのない人すべて」ということになるでしょう。こうした活動が「人」に向けられ、「人」を中心として成り立っていることは間違いないはずです。
しかし、あらゆる人に「一つの言葉」では、なかなか作用できないのだと思います。コミュニケーションにもさまざまな深さがあり、やりとりできたと感じ入るためには「どうすればよいか」と、毎回そのつど思い入れるわけです。こうしたことを繰り返しながらも、新しく何かとても大切なものや考え方や感じ方を自分と他者の「あいだ」に置く。そうして分け合いながらも保つ。こうしたことの繰り返しなのかなぁ、と思っています。
芸術に対する理解に幅があるのだとすれば、それは時代性を除いては考えられない現在進行形のものでしょう。1枚の「絵」、一つの「作品」を自分自身の鑑賞として読み解き、他者と交換することができることの豊さが、芸術そのものの意味へと近づけるのではないでしょうか。
「芸術とは何か」という答えは、一つどこかにあるわけではなく、さまざまな異なった価値を持ち、現れながら消え、また現れる、といった往復を繰り返し続けるのかもしれません。そして、私たちはそれらのことに触れてもいるのだと思います。
G3大内秋子
(日本語教師)
私にとって見えない人とのアート鑑賞は、見通しのきかない森の中を歩いているのと同じような感じがしていた。地図やガイドはない。道連れ数人と一緒に、おぼろげな期待を抱いて会話しながら進んで行った。
迷いながら行く道に予想以上に豊かな言葉が行き交い、想像力が刺激され、深い満足感が得られて終わったこともあったし、難渋した行程に疲労だけが残ったこともあった。でも、「もう行きたくない」と思ったことは一度もない。
こうして10年近く美術館という森をさまよっていたので、私にはたくさんのエピソードが蓄積されている。非常に個人的な体験なので、今回の会議では「さあ、それを理論的にまとめて説明してくれ」と言われたようで苦しかった。
社会に向けてアピールしようとすると、説明にふさわしい論理と具体的なプランが必要だとは思っているが、MARでの経験はそういうことからかなり遠い。それなのに「この時代だからこそすごく必要なことだ」という確信がある。そのギャップを埋めるための長い長い議論の時間だった。
疲れて朦朧となりながら10年前にはこんな議論はできなかったと気がついた。集まった人たち自身の経験が確かに厚く多彩になっている。今はまばらな雑木林だが、そのうち豊かな森になっていく予感がする。
やっぱり私は論理的思考は苦手だから、1本ずつ苗木を植えていきます。
|