視覚に障害のある人とのことばによる美術鑑賞会議 
報告書

 

まとめにかえて
主要メンバーの感想

 

1.はじめに

2.言葉による鑑賞グループによる感想

3.美術館関係者による感想

4.研究者による感想

5.司会による感想

 

 

 1.

十数年前、視覚に障害のある一人の市民が個人の楽しみとして始めたこの鑑賞は、たくさんの出会いと時を経て今、障害者と健常者、専門家と市民といった枠組みを越えた新たな市民活動として各地に広まっています。

この「視覚に障害のある人とのことばによる美術鑑賞」が、さまざまな人の共感を得るだけでなく社会の固定した概念・観念を揺るがし豊かな議論を生み出す要素を含んでいることは、この会議の記録からも十分読み取ることができるでしょう。また、この活動が美術、教育、福祉、市民活動などの分野に問題・課題を提起し、閉塞した社会に風穴を開ける大きな可能性を秘めていることも明らかです。しかし、わずか3日間の会議では具体的なビジョンを示すまでには至りませんでした。

今後もたくさんの賛同者と知恵を得て各地に小さな輪が生まれ、活動が深く広く発展することを、また、それぞれの創造的な生き方につながり、誰もがともに尊重し合える社会を築く手段としていかされることを、多くの関係者が願っています。

まとめにかえて後日、主要メンバーに寄せてもらった感想からも、その期と希望がうかがえます。

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2.言葉による美術鑑賞グループによる感想

G1濱田庄司*

G1松尾さち (JOY倶楽部プラザ アトリエ ブラヴォ美術指導員)

G1石田陽介(ソーシャル・アートセラピスト/九州大学USI子どもプロジェクトアドバイザー)

G2 光島貴之* (アーティスト/鍼灸師)

G2 阿部こずえ (ミュージアム・アクセス・ビュー代表)

G2山田裕子 (大学院生)

G3白鳥建二* (マッサージ師)

G3 ホシノマサハル (コミュニティーアーティスト/アートディレクター)

G3大内秋子 (日本語教師)

※G1はギャラリーコンパ(福岡)。G2はミュージアム・アクセス・ビュー(京都)。G3はミュージアム・アクセス・グループMAR(東京)の略です。*印しは視覚に障害のある参加者です。

 

G1濱田庄司* (鍼灸師)

まず、ほかの鑑賞グループのことを直接知りうることができ、刺激にもなり、それぞれの立場にいる人の話を聞けて、とても得ることが多くありました。会議に関しては、途中から何が何やら分からない感じで、一体どこへ進もうとしているのか、分からなくなる場面もありました。私自身に問題があったとも思うのですが、それは、私だけだったのでしょうか?

そもそも、この大きな目的を2泊3日で行うのは……。それでも、今回の議事録や質疑応答の文書を読むと、進むべき方向には向かってはいるなと思いました。が、やはり、このような会議を数年積み上げてこそ、大きな目的に達せるのではないのでしょうか。

そのためには、もっともっと直接的・間接的な情報共有とコミュニケーションが必要だと思います。何かと困難とは、重々承知していますが……。

私たちギャラリーコンパも会議以来、よい方向というか手ごたえを少し感じていて、一つのステップアップの大きなチャンスではないかと思っています。そして、私自身も人の手を借りてちっちゃな構想を頭の中で巡らせています。

私はこの会議に参加して、あらためて手法や思い、個性はそれぞれでしょうが「文化芸術」は嗜好品のようなもので、楽しくなければイヤ、おもしろいのではなく「おもしろがらなければ」と思ってもいます。それが、私の持論です。見落とされがちですが、つまり、進むべき方向は、そういうことではないでしょうか?

 

 

G1松尾さち (JOY倶楽部プラザ アトリエ ブラヴォ美術指導員)

会議に参加してから数カ月、とても有意義だった、刺激的だったと思いながらも「ではこうしよう」というはっきりとした自分の考えが浮かびきれませんでした。視覚障害者の義務教育段階でのアートへの働きかけや、視覚障害者の集まる場所や団体への参加を促すような働きかけは、我々ギャラリーコンパがいずれどこかで、あらためて今より大きなアクションとしてやらねばならぬことと感じました。でもその前に、この地に帰って来て「アート鑑賞のやり方やツール自体にもっといろんな参加者が共鳴する何かを見つけたい」という思いの方が強くなっていきました。どんな立場の人もそれぞれに、求める何かにちょっとでも出会えるような内容ややり方が実はすぐ近くにあるのに、まだ見えて来ていないんじゃないか。今まで障害者との活動を仕事としてきて、ある部分が分かりやすいことはとても大切なことだと感じています。

そう思うタイミングにギャラリーコンパをあちこちでやろうという人や場所に恵まれました。今回2か月の間に4回、県外の美術館から小さなギャラリーまでいろんな場所で、呼びかけ方から集合のしかた、音楽を入れたり写真展だったり日本画を触ったりと、いろんなやり方を試してみようと思います。その中からこれからのヒントが見つかればいいなと思っています。

私たちはとても小さなのんびりしたグループですが、言葉による鑑賞だけでなく、五感を使った、ときには言葉にならない鑑賞(つまり共有体験だけ)も含めて、それからアートを介さない直接的な人との出会い(コンパ)も含めて、広がりと深まりを楽しみながら、活動の方向を探って行きたいです。

 

G1石田陽介 (ソーシャル・アートセラピスト/九州大学USI子どもプロジェクトアドバイザー)

盲ろう者で東京大学教授である福島智氏は、視覚と聴覚をまったく失った自身の体験から「人間にとって一番大切なことは、コミュニケーションである。他のすべてがあっても、人とのコミュニケーションがうまくいかなければ、人間は生きていけない。コミュニケーションできれば、それだけで生きて行ける」と語られた。また美術評論家の建畠晢氏は「相手を理解するべき努力は最大限するべきだが、限界もある。そうした限界を超えて、共感や驚きを抱けるのが芸術の力ではないか」と語られている。つまりアートは三項関係においてコミュニケーションを成立させるという点で‘Joint Attention’(共同注意)としての術であると言える。

三項関係とは、自己―他者、自己―モノとの二項関係を超えて自己と他者がモノ(媒介物)を共同化する関係をつくることであり、まさしくコミュニケーションそのものである。そうしてアートというものは「共同注意」において人類の中で最も有効なモノのひとつと言えるのではないだろうか。 鑑賞ワークショップとは、そうしたコミュニオン体験を、アートを介しながら枠組み化していく社会に開かれた遊戯なのであろう。

江戸時代には「連」が都市文化として発生し、感性価値をともにする人々が職業、身分、年齢を越え集まり、共有地(コモンズ)を数多く築いた。そこでは俳句・書画・園芸・観劇など、リベラルなアート系サークルが隠居層の養生文化と強く結びつき、現代へと続く日本文化の中核を築いていった。鑑賞ワークショップの広がりは、今後の地域コミュニティ再生化に向けたアクションとしても大きな可能性を秘めていると私は感じている。

 

G2 光島貴之* (アーティスト/鍼灸師)

会議に臨んでの課題は、「視覚障害者は、言葉による鑑賞のナビゲーターたりうるか?」だった。今、この問いは、「意識的なナビゲートは、本来の言葉による鑑賞のよさを妨げないか?」に変貌しつつある。個人的には、積極的に会話を導くことで、鑑賞の質が高まることを実感している。

「盲学校では、重複障害の子どもが増えている。言葉を自由に操れる子どもは少ない」と言われることがある。だから、言葉による鑑賞は困難だという結論になってしまうのだが、はたしてそうだろうか? この辺りを何とかクリアできれば、また新しい展開が見えてくるだろう。ぼく自身、盲学校時代に見える人との会話がとても苦手だったのだが……。

見えないことをうまく利用して、新たな鑑賞のスタイルができていきそうな予感と、それをいろんなやり方で助けてくれるツールだという自覚も出てきた。

 

G2 阿部こずえ (ミュージアム・アクセス・ビュー代表)

同じく試行錯誤しながらそれでも活動を続けているMARやコンパの話を聞けて励みになった。地域ごとの特色の違いがおもしろかった。

今回、一番すっきりしたことは、美術館とのかかわり方。美術館の事情や、学芸員さんの個々の心情などを伺うことができ、美術館のことを全然知らなかったことが分かった。法人でもないし、会話をするのでうるさくなってしまうので、必要以上に萎縮してしまうときと、言葉の鑑賞のおもしろさを絶対知ってもらいたい、見えない人と見るのだから声を出すのも当然だ、と妙に強い気持ちになるときもあり、いまいち立ち位置や関係性が分からなかった。播磨さんの言われた「市民」として対等にかかわればいいと分かった。学芸員さんの知識やアイディアを頂いたり、ビューからも何か提案してもいいのかもしれない。

今後の課題。まだビューのことを知らない見えない人/見えにくい人に、案内や情報が届くよう地道に努力する。見える人は、学芸員やアーティストなども含め、いろんな人を意識的に巻き込むようなプログラムも考えていきたい。創作ワークショップと鑑賞ツアーを分りかやすくリンクさせるようなことや、見えない人がナビゲートする鑑賞や、子どもとの鑑賞などにも挑戦したい。

 

G2山田裕子 (大学院生)

今回の議論のなかで、教育現場(特に学校)や保護者への発信、子どもたちへの鑑賞の普及について何度か取り上げられていたことが印象に残っています。

近年、指導要領改訂の目玉として、PISA型読解への問題意識から「読解力」「表現力」が取り上げられていますが、言葉による鑑賞にはこれらの力の育成に何らかのヒントになるのではないかと考えています。例えば言葉で表現しながらイメージを構築していくことやコミュニケーションの中で自分なりに答えを見つけることは、国語にもありうることですし、「日常の中にある『人間とは何か』、人間のありようなど謎解きみたいな問いが浮き出ている」という指摘(播磨さん)や、「自分の表現について自分に語れるようになること」の重要性(日野さん)は、学問すべてに言えることではないでしょうか。

けれど議論中でも出たように教育という場の特性から「これが鑑賞である」と思ってしまう危険性をはらんでいることもまた事実です。それに対してMARやコンパ、ビューの市民団体から提供されるというアプローチは、「楽しい」場としての鑑賞を可能にする場だと思います。美術という媒介を通して、コミュニケーションを楽しむことができるということ、1点の作品を懸命に見ることのおもしろさがあることを経験として知る場としての期待を感じました。

議論の論点と少しずれているうえ、具体性に欠けますが、社会から期待されている一つの見方として読んでいただけると幸いです。

 

G3白鳥建二* (マッサージ師)

言葉を使って鑑賞するワークショップにかかわるようになった頃、「この活動の未来に何を望むか」というような質問をされたことがあります。僕は、いろんなことを望んでいるような気もするし、ほとんど大して期待していないようにも思う、と答えました。この気持ちは、今でもあまり変わっていません。

一つ分かっているのは、僕は形にこだわっていないということがあります。例えば、一つの絵画を言葉にする時、全体的なことから細かな事柄に話を進めてゆくのは、盲人が絵をイメージする時の一つの手段にすぎません。そもそも、美術作品でなければならないという理由はなく、公園に行き草花の話をしてもいいではないか、という意見にもうなずいてしまう部分があります。

では、結局何を望んでいるのかというと、他人とちゃんとかかわりを持ちたいということなんです。作品鑑賞であれば、「この場所でこの作品を前にして、あなたと鑑賞できて本当によかった」という実感です。これは言葉で説明して理解してもらう種類のものではなく、実践して感じてもらうことなんだと思います。

そうして何かしら気づいた方々が、それぞれの立場で次の行動を起こしてくれる。あるいは、その思いを大事にしていてくれる。僕が伝えてゆきたいのは、お互いにかかわり合って満足する鑑賞ができた時の、幸福感とかありがとうという気持ちです。

だから、これからも以前と同じように、単独で美術館へ行く活動も続けるつもりです。時々ではあるにしても、そこにはすばらしい出会いが待っていてくれるからです。

 

G3 ホシノマサハル (コミュニティーアーティスト/アートディレクター)

このような会議が最終的に「誰のために向けて行われているのか」という問いかけに対しては、「いまだこうした鑑賞の方法に出会ったことのない人すべて」ということになるでしょう。こうした活動が「人」に向けられ、「人」を中心として成り立っていることは間違いないはずです。

しかし、あらゆる人に「一つの言葉」では、なかなか作用できないのだと思います。コミュニケーションにもさまざまな深さがあり、やりとりできたと感じ入るためには「どうすればよいか」と、毎回そのつど思い入れるわけです。こうしたことを繰り返しながらも、新しく何かとても大切なものや考え方や感じ方を自分と他者の「あいだ」に置く。そうして分け合いながらも保つ。こうしたことの繰り返しなのかなぁ、と思っています。

芸術に対する理解に幅があるのだとすれば、それは時代性を除いては考えられない現在進行形のものでしょう。1枚の「絵」、一つの「作品」を自分自身の鑑賞として読み解き、他者と交換することができることの豊さが、芸術そのものの意味へと近づけるのではないでしょうか。

「芸術とは何か」という答えは、一つどこかにあるわけではなく、さまざまな異なった価値を持ち、現れながら消え、また現れる、といった往復を繰り返し続けるのかもしれません。そして、私たちはそれらのことに触れてもいるのだと思います。

 

G3大内秋子 (日本語教師)

私にとって見えない人とのアート鑑賞は、見通しのきかない森の中を歩いているのと同じような感じがしていた。地図やガイドはない。道連れ数人と一緒に、おぼろげな期待を抱いて会話しながら進んで行った。

迷いながら行く道に予想以上に豊かな言葉が行き交い、想像力が刺激され、深い満足感が得られて終わったこともあったし、難渋した行程に疲労だけが残ったこともあった。でも、「もう行きたくない」と思ったことは一度もない。

こうして10年近く美術館という森をさまよっていたので、私にはたくさんのエピソードが蓄積されている。非常に個人的な体験なので、今回の会議では「さあ、それを理論的にまとめて説明してくれ」と言われたようで苦しかった。

社会に向けてアピールしようとすると、説明にふさわしい論理と具体的なプランが必要だとは思っているが、MARでの経験はそういうことからかなり遠い。それなのに「この時代だからこそすごく必要なことだ」という確信がある。そのギャップを埋めるための長い長い議論の時間だった。

疲れて朦朧となりながら10年前にはこんな議論はできなかったと気がついた。集まった人たち自身の経験が確かに厚く多彩になっている。今はまばらな雑木林だが、そのうち豊かな森になっていく予感がする。

やっぱり私は論理的思考は苦手だから、1本ずつ苗木を植えていきます。

 

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3.美術関係者による感想

北村淳子 (宇都宮美術館 主任学芸員)

吉岡知子 (埼玉県立近代美術館 学芸員)

池尻豪介 (世田谷美術館 学芸員)

梅田亜由美 (女子美術大学美術館 学芸員)

北村淳子 (宇都宮美術館 主任学芸員)

岡崎智美 (横浜市民ギャラリーあざみ野 職員)

森山純子 (水戸芸術館 現代美術センター教育プログラムコーディネーター)

渡辺希利子 (富山県立近代美術館 学芸員)

 

北村淳子 (宇都宮美術館 主任学芸員)

私は、MARの鑑賞会に参加して、皆さんと知り合いになるうち、予期せぬ作品の深部に触れるこの方法を何とか美術館の中で定着させたい、という気持ちを抱いた。でもそれは、あまりうまくいかないまま今日に至っている。しかし、今回の会議に参加して、自分の矛盾に気がついた。MARがおもしろいのは、あくまでもそれが美術館の制度について、美術館の外から批評的なスタンスを有してやって来るからなのであり、もし私がちゃんと学芸員として、美術館の本来の、西洋近代美術の啓蒙、ひいては美術作品の理解を促す、という役割を全うしようとすれば、美術館という制度を揺るがすかもしれないMAR的鑑賞は、いかにもアブナイ行いなのである。

もし啓蒙が必要なら、同じ対話型でも、アメリア・アレナス的な対話型鑑賞法の方が、よほど効果がある。美術館主催でMARをやる、っていう発想がいけないのだ。

「美術館はMARにヤラレル」しかない。美術館がMARにできることなんて、学芸員が考えようとするのもおこがましいのである。ただし、MARがやってきたときには、できれば私もちょっと混ぜてもらいたいと思っています。でも、それは同じ美術大好き鑑賞者として。

最後になりましたが、こんなに自由にいろいろな立場の皆さんとお話できる貴重な機会を与えてくださったエイブル・アート・ジャパンと富士ゼロックス端数倶楽部のみなさまに心からお礼を申し上げます。

 

吉岡知子 (埼玉県立近代美術館 学芸員)

初めてMARの鑑賞を見学したとき、見える人も見えない人も、対話によって自由に感想を述べ合うという方法に、私は楽しい気持ちになり、MARにぜひまた来館してほしいと思った。だが、会議に参加するにあたっては不安も感じていた。私は、学生時代にいわゆる美術史を勉強し、美術を歴史的に検証していくことのおもしろさと必要性を感じている。そうした価値観を持つ多くの美術館学芸員と、この鑑賞方法との間にある深い溝のことが気になり、どう折り合いをつけるのか、ということばかり考えていた。

しかし、会議を通して、その考えは視野の狭い見方であることを痛感した。この鑑賞は美術や鑑賞の本質をついているうえに、それを越えていく。障害者の支援といった枠も越えていく。一つの作品を前に、見える人も見えない人も自分と向き合うこと、それを他者に伝えることを求められ、大きく言えば、自分が日々をどう生きているのかを突きつけられる活動だ。そう考えると、この鑑賞には何か溝も越えていく可能性があると感じられた。

個人的な感想ばかりになってしまったが、美術を媒介として、美術館を舞台として、こうした活動が展開されていることに、学芸員も目を向けるべきだろう。各グループの方々は学芸員に声をかけると、求めていない専門的な解説を聞くはめになることがあるだろうが、この鑑賞をおもしろいと感じる学芸員との出会いが増えればと思う。それは、活動の普及にとっても、美術館にとってもプラスになるはずだから。

 

池尻豪介 (世田谷美術館 学芸員)

視覚に障害がある人に限らず、子どもや大人、誰かと一緒に、作品の前で、言葉を交わしながら美術を鑑賞すること、それ自体の魅力が、今までずっと僕の心を捉えてきました。一緒になって作品の謎を解こうと必死になったり、作品が発端となって互いの経験や記憶を語り合ったりする。この行為とそこで過ごす時間には、追い立てられるような日常の慌ただしさから少しの間解放されるような、不思議な心地よさを感じます。

今回、会議に参加してあらためて認識を強くしたことは、視覚に障害がある人とない人の言葉による鑑賞では、「美術を見ることによって美しいと感じるのはなぜか」、あるいは「美術作品の美しさとは何か」といった、「見ること」にまつわる大きな問いが、参加者に突きつけられるということです。こうした問いが発生したとき、美術は他人事ではなく、既に自分自身の根源的な何かに直接かかわる問題となっています。

このような鑑賞活動が生まれた1990年代の終わりから現在に至るまでのこの10年と、各地の美術館で対話を重視した鑑賞が盛んになってきた流れが、同時期にあたることは、非常に興味深いと考えています。美術を真摯に自分の問題として鑑賞する人々の出現が、美術館にどのような社会的役割を要請しているのか、また、今後美術館はどのような姿勢でこのような人々からのアクションを受け止めていくべきなのか、考え続けていきたいと思います。

 

梅田亜由美 (女子美術大学美術館 学芸員)

頭の芯がぎゅーっと痛くなるほど考えて、考えて、考えた3日間でした。多くの問題提起があり、いまだに整理しきれていませんが、「この活動にどのような可能性を感じているのか」という問いへの答えを求めて、討議を続けていたような気がします。そして、各自の立場から確実に何らかの可能性を感じているものの、それがどのようなことについての、どのような可能性なのか、それがなぜなのか、ということをまだつかめず、これといった具体的な言葉にすることもできずにいるような印象を受けました。でも、それこそが「可能性」たるゆえんなのかもしれません。

私は大学の中にある美術館で働いており、美術館は学生にとって作品を楽しむ場であるだけでなく、「社会における美術の可能性を体感する場」としてありたい、あってほしいと考えています。そのような場の一つとして、この鑑賞方法もぜひ学生に知ってもらい、体験してもらいたいと思っています。

以前からお話を伺ってみたいと思っていた、尊敬する多くの方々と同席することになり、何日も前から緊張し、また楽しみにして臨んだ会議でした。3日間、缶詰になってひたすら同じテーマについて語らうことは想像以上にハードでしたが、参加者の皆さんの発言から、これから私が美術館の現場で何度も考え、問い直し、育てていかなければならない「種」を本当に、たくさん頂きました。きちんと実を結ぶことができるよう、自分なりに誠実に向き合っていきたいと思います。

 

岡崎智美 (横浜市民ギャラリーあざみ野 職員)

今回の会議を通して、「言葉による美術鑑賞」が各地にさまざまな形で広まり、そして深まっている状況について伺うことができましたが、まだいろいろな面でハードルが高いと思われていることも同時に感想として持ちました。

「言葉」による鑑賞が常にベストであるとは限りませんが、視覚に障害がある人、そして障害がない人にとっても新しい感動につながる糸口となる可能性を持っています。またそれ以上に「見える・見えない」という条件を越えて、相手や作品と創造的な対話を共有できることが何よりすばらしいと思っています。

美術施設としては、作品へのアプローチを学芸員による作品解説やアーティストトークなど、さまざまな形で提供することが求められますが、その一つとして、言葉による鑑賞会を折あるごとに開催するなど、まずはこのような鑑賞の可能性を伝える機会をつくっていきたいと思います。また、視覚障害者の方が美術館に行く前段階で想定されるハードル(ソフト・ハード面)にも配慮の必要を感じています。当ギャラリーに行きたいと思うさまざまな人が安心して来館できるにはどうしたらよいか、その部分についての取り組みも、少しずつですが始めたところです。いずれにしても、「人」が「人」とどのように向き合うか、ということが、さまざななモノやコトを豊かにしていく原動力だと思います。
できるところから一歩ずつ。今後もこのテーマについて取り組んでいきたと思っています。

 

森山純子 (水戸芸術館 現代美術センター 教育プログラムコーディネーター)

皮肉か当然か、この会議の中で一番違和感と不足感を覚えたのは、美術館についての議論であった。アメリア・アレナスの観賞が話題に出た際、当時水戸芸術館はその書籍化に参加しなかったと報告した。それはアメリアの方法論そのものへの懐疑ではなく、この方法を、人を介さず伝えられるかどうかに確信が持てなかったからだ。期せずして光島さんが会議の中で述べられたように、アメリアの方法は作品の前でナビゲーションをする人にとって学ぶべき点が多くある。私はむしろ視覚障害者との鑑賞のプロセスに多くの一致を覚えている。その検証は私にとっても、この会議にとっても今後の課題の一つであろう。

 また、それに関連して今後の普及について述べたい。中学校の国語教師をしているボランティアの報告によると、最近は美術ではなく国語科の先生方からもアメリアの名前が聞かれるようになったという。一部の学芸員しか知らなかった10年前とは明らかに違う状況がここにある。思うに活動を広げていくには「誤解を恐れない」ことが肝要かもしれない。かつての私たちが二の足を踏んだようにズレを恐れては到底広がらない。今回の会議で三つのグループが既に性格を異にしているように、広がることは変質を伴う。特に強いスタンダードがないこの活動にはやはり普及(拡散)を促進しつつ、中心となり、検証をなすようなセンター機能が重要に思える。この会議が(今後も続くのならば)メンバーを替えながらもその役割を担うといいのではないだろうか。会議からはたくさんの指針を頂いた。関係者の方々に心より感謝の気持ちを送りたい。

 

渡辺希利子 (富山県立近代美術館 学芸員)

白熱した議論が、安易な結論に落ち着かなかったのがよかったと思う。美術館に勤める者としては、話すこと・触ることのバランスと作品保護を考慮しつつ、さまざまな少数派の人の作品鑑賞のための対応に考えを巡らす濃密な時間だった。言葉での鑑賞は、視覚障害者がいることでその意義は際立ち、美術鑑賞の本質的なことを明確にする。つまり、作品や作家と自分の言葉で語り合う行為であるという考えが強まった。

また、現在休止中のグループの一員としては、多々課題や反省点はあるが、設立した意味は大きかったと思える。経済状況の激変やメンバーや参加者の個人的事情などを考えると、人が人に対して行っていることだからこそ、もっと広く緩やかなシステムを導入し、活動再開する機会や人材を待つことも大切だと思う。しかし「“わからないこと”を楽しむ」主旨を理解してもらうことが活動再開の前提であり、やはり大きい課題であろう。今思えば、活動が頓挫したのは、「分からないから(不正確なことは)言えない」という姿勢に引っぱられたことであったと思う。

正直、日々多忙な視覚障害者を美術鑑賞に誘うのは難しい。だが、現在では盲学校の美術への取り組みにも変化があり、好例になったと思っている。地方都市でも、視覚障害者とアートや美術館の距離を近くできたのだから、やはり「言葉による美術鑑賞」のコミュニケーションで創出される世界は、今後もいろいろな人を巻き込んでいくことができると思っている。

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4.研究者による感想

杉浦幸子 (京都造形芸術大学 教学事務室 国際交流グループ グループヘッド/ギャラリーエデュケイター)

塩瀬隆之 (京都大学総合博物館 准教授)

日野陽子 (香川大学 教育学部美術教育講座 准教授)

井尻貴子 (大阪大学大学院文学研究科臨床哲学研究室 大学院生)

 

杉浦幸子 (京都造形芸術大学 教学事務室 国際交流グループ グループヘッド/ギャラリーエデュケイター)

私が参加したのは前半の2日間でしたが、本当に刺激的で、いろいろなことが頭の中を巡った2日間でした。美術館を離れた後、約4年間、視覚障害を持った方とアートに接する機会をほとんど持たなかった私にとって、どこか心にひっかかっていたことにもう一度出会った、そんな体験となりました。

長時間、一つのテーマを巡って話し合ったり、泊まり込みで多くの時間を過ごしたこと、また鑑賞の時は一対一だけど、今回のように多くの人たちで話し合ったことで、これまで美術館の展示室では聞くことや感じることができなかった視覚に障害を持った皆さんの、本音や素顔を感じることができたような気がしました。

美術の現場から教育の現場に移ったことで、自分自身の関心が美術館での活動からずいぶん離れてしまい、そのため視覚に障害を持った方たちとのかかわりも希薄になっていました。が、今回参加したことで、自分の今いる場所でも何かおもしろいこと、意味のあることができるのでは、と思うようになりました。

 会議でもお話しましたが、うちの大学(美大)には視覚に障害がある学生さんが全然いません。それまでそのことを意識したことがなかった(意識する余裕もなかった……)のですが、今回それはとても不思議なことだと思うようになりました。また会議の後、大学のギャラリーの企画運営を担当することになり、再びアートに親しむプログラムづくりにかかわる可能性が出てきました。具体的なプランはこれからですが、大学発ならではのおもしろいプログラムをしたいと思います。またそこで皆さんに会えること、楽しみにしています。どうぞこれからもよろしくお願いします。

 

塩瀬隆之 (京都大学総合博物館 准教授)

言葉による美術鑑賞の実践者、受け入れる美術館関係者、さらにその重要性をまた違った視点で見る研究者、という異なる三者が一堂に会する場がこんなにも早くに催されるとは思ってもいませんでした。主催されたエイブル・アート・ジャパンさんに深謝します。

もともと多様な見方を許すような柔らかさが特徴の活動ですから、言葉をすり合わせることそのものが本意ではない方もおられるかもしれません。特に研究者が振りかざす意味不明な専門用語は、ときに実践を現場から切り離し、実践者のモチベーションを下げてしまう危険性を常にはらんでいるからです。しかし,それと同時に研究者は実践の積み重ねを叡智として後世に伝えていくことに関して一日の長があります。曖昧模糊とした中で起こる緩やかなコミュニケーションの魅力を広く、また持続的に伝えていくためには、その活動を形式的な言葉を多用して説明し直すという矛盾をどこかで受け入れなければなりません。

人は誰しも自らが信じて疑わないことばかりがよく目につきます。そして、そのすぐ隣にあることに目を伏せがちです。この会議では、大阪大学の高橋さんによる、ゆる〜い進行によって見事に柔らかいまま時が流れていったことが印象的でした。それはもしかするとこの実践を伝え、継続していく一つの答えだったのかも知れません。

 

日野陽子 (香川大学 教育学部美術教育講座 准教授)

 さまざまな立場の方の率直な意見を伺い、遠慮なく話し合うことができ、目の前が開かれるような気持ちでした。今、議事録を読み返しても、この鑑賞へのそれぞれの真剣な取り組みと愛情、期待と熱意が、よみがえってきます。

私はこれまで、教育を考えることが人間を考えることだと思い、職業的立場から主に学校の美術教育に携わってきました。ここ数年は、対話による鑑賞教育の研究活動にもかかわってきましたが、今、一つの危惧を感じています。約20年前、美術館教育のブームが起こり、学習指導要領でも鑑賞教育に重点が置かれるようになって久しく、近年は国内でアメリア・アレナスの対話による鑑賞法も広まって、平成20年の新指導要領では小中学校の全科で「言語活動の促進」が明示されました。今後は、図工・美術科の教育においても言葉や対話がキーワードとなっていくことが予想されます。

言葉も対話も、アートを介すると確かに豊かに広がります。しかし、教育制度の枠に入ると、どうなのか。そこには、教師と生徒という免れられない条件があります。私たちはこの絶対矛盾の中で、絶えず子どもの表現(言葉)が本当に内側から生まれているのかを確かめ続けなければなりません。今、新たな視点を据える必要があるのではないか――そう考えていた折、この会議へのお誘いを頂きました。

 この鑑賞では、家を出て美術館へ向かう段階からすべての活動が参加者の意志にゆだねられていて、当然、言葉もまた自ら生み出していきます。胸に秘めていたものを、他者の揺さぶりを機に自らの力で手繰り寄せて物語り、他者と共有することでさらに心に栄養をつけていきます。この鑑賞には、作家の多くが自身を美術表現に託す理由とする「言葉にした途端に抜け落ちてしまうリアリティ」さえ容認するような、緩やかな広がりと奥行きがあります。その「底力」が新たな可能性を開き、鑑賞を教育制度の「枠の外から」リードするものになっていくであろうと期待しています。

 

井尻貴子 (大阪大学大学院 文学研究科臨床哲学研究室 大学院生)

MARはおもしろい。その声に出会ってから、早くも5年。参加者として、事務局として、そして今は少し離れたところから。今なおMARはおもしろい、と語る人々の傍らで、何がおもしろいんだろう? なぜそう思い続けることができるのだろう? と考え続けてきた。それは、MARとは何か、この鑑賞活動とは何か、について考えることでもあった。

今回の会議では、MARだけではなく、アクセス・ビューや、ギャラリーコンパ、学芸員、研究者など、さまざまな方の意見を伺うことができた。もちろん参加者全員が、この鑑賞活動はおもしろい、と思っているわけではない。だからこそ、いろいろな角度から考えることができたように思う。

議事録を手に、会議を振り返る。いくつものキーワード、論点が思い出される。ゆるさ、視覚障害者、晴眼者、美術鑑賞、美術館、コミュニケーション、共有、分有――それらは、この鑑賞活動の本質を明らかにするという意味で、どれも重要だろう。

だがやはり、この活動の本質は、これらの言葉を導くことになった、個人個人の体験抜きに考えることはできない。会議では、いくつかが具体例という形で語られた。だが、その背後には、もっともっとたくさんの、一人ひとりの体験がある。

作品、人、人、人、言葉、場。そこで出会い、語り、ゆらぎ、気づくこと。それらがこの活動を形づくりまた活動の中にとどまらず、その一人ひとりを介して社会とつながってゆくのではないかと思う。だからこそそれぞれがそれぞれに、活動を積み重ねることを期待したいのだ。これからも。

 

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5.

司会:高橋綾 (大阪大学大学院 文学研究科 特任研究員/同大学コミュニケーションデザイン・センター 招聘研究員)

この活動は、「哲学カフェ」と同じく、市民による文化的自治活動であると考えています。行政や企業が用意してくれるものではなく、自分たちの生活に必要だと思う芸術や文化を、自分たちでつくっていく自律的な活動です。ですから基本的にはそれぞれが、自分が楽しいから参加するというのでよいと思っています。もちろん人がたくさん来てくれたらいいな、活動が長く続く方法はないものか、など哲学カフェと共通の課題として考えることはありますが、それに固執しすぎて、もとの「やりたい」という思いを忘れないようにしたいです。個人的には、心から楽しんで活動している人のところには、自然と人が引きつけられて集まってくると信じており、それ以外に人がアクションを起こす動機はないと思います。大きな制度でさえ、人々の自発性を保証することはできません。それどころかそれはこうした活動を疎外するものになりがちです。いま私たちに必要なのは、手の届く規模の自律的活動を維持していくための「知恵」であり、小さな自治形態を新しくつくることなのだと思います。それと別の場所で手づくりの活動をしている人とつながっていくこと。あとは、活動を維持する具体的な場所をつくるということでしょうか。市民がお金を出し合って、自分たちが欲しいカフェや大学や美術館をつくれたらきっとおもしろいと思います。_Viva la autonom誕!

 

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