2002年の春、ミュージアム・アクセス・ビューのグループ名を考える時に「トーク・スルー・アート」にしようか? という案が出ました。結局ボツになりましたが、でもいいねえ! と思いました。提案者は、「Talkするアート」と「得するアート」をかけていたのです。「得するアート」とは、確かに。ビューの鑑賞ツアーに参加すると、毎回いろんな発見に出会い、それはいつもお手軽で得した気持ちになってしまうのです。
実は密かに思っていること。美術好きの人は、きっと美術館で作品を見て感じたこと、美しいとか、きれいとか、気持ち悪いとか、共感できないとか、そんなことを声に出して言いたいのじゃないんかなあ、と思います。なぜなら私たちの鑑賞グループに一般の観客が会話に混ざってくることがあるからです。私はこう感じたとか、言いたいのかなと思う。
私も一人で美術館に行くと、もちろん黙って鑑賞します。近づいてみたり、離れて見たり、じっくり見るけれど、でも何にも心に残らないことも多い。視覚障害のある人と行くと、言葉で伝えていかないと始まらないので、作品をとにかく見て、そして一生懸命伝えます。自分が、わあ! と驚いた作品なんかは、特にしっかり伝えたいと自然に思う。絵の構図、色、形、表情や、雰囲気や印象やとにかく自分が見えたこと、思ったこと、うまくしゃべれなくても、自分のこれまでの経験から生まれる言葉を全部使って伝えます。
例えばある時の発見、それは私には得した気持ち。
ビューの鑑賞ツアーで、日本画のコレクションをもつ細見美術館へ行きました。一緒にまわった人は先天的な全盲の方で、「日本画って何?」というところから質問が始まりました。え、日本画知らないの? ということにびっくり。でも、日本画ってこんな感じ、と素材や技法を伝えてもうまく伝えることができません。
その時の多くの作品は屏風絵で、洛中洛外図のように鳥瞰図で雲の下に広がる街。「雲の間から街が見えてでも、街の細かなところまでしっかり描かれていてでも、きれいなの。」こんな言い方でわかるのかな? と思いつつ、相手の方は「ふーん」となんとなく相づち。
平安時代の屏風に描かれた美人画。国宝だったかな? 女の人が
5
人ほど、道ばたで話しをしたり、遊ぶ子どもをみたり、そんな日常のひとこまが切り取られています。のんびりしたようなアンニュイな雰囲気がただよっています。顔の角度や表情をああだ、こうだ、と長いこと説明していました。でも、なかなかその微妙なニュアンスが伝わらない。そして、最後に視覚障害の人から、この人物を、芸能人に喩えると? という質問がされました。誰かが桃井かおりかな? といった瞬間、視覚障害の人は、一言「わかった」とおっしゃいました。長い会話を通して、でも、人物の存在、そこから流れる作品の雰囲気など、だいたいわかった、と。
作品を鑑賞するとは、自分の今の場所から、自分の尺度でしか感じられないのだなあと理解しました。そして、アートって生活にかけ離れたものではなくて、密着しているものかもしれない。
また気づくのは、言葉が人それぞれの経験で違う意味をもっていたり、共有できたりするということ。自分以外の見える人と、見えない人とで、そんなふうにそれぞれの言葉を使って、鑑賞することは、ある一つの作品に、自分なりの意味を見つけたり、作家の思いに気づいたり、そして一緒に鑑賞している人を知ることにつながる。作品と、一緒に見ている人たちとの対話になります。
視覚障害の人と一緒に言葉で鑑賞すると、いろいろ説明してもやっぱりイメージがわかないとよく言われます。美術で一番大切な知覚、見るということができない人に、さわれない絵の世界をどうして伝えることができるのだろう? と。でも、一度体験したらわかる。やっぱりアートは、感じるものだなあと思います。視覚障害の人と見ることは美術を感じる方法がものすごくつめこまれていると思います。そして、一緒に見る人がいる、共感できるって単純にうれしく楽しいことで、とても得した気持ちになってしまいます。
|