視覚に障害のある人と一緒に言葉で絵を鑑賞するとは、考えもしなかった。そもそも絵を見ることは自分の中で完結するプロセスだと、私は思っていた。まして外国人の私にとって、日本語で他人と絵について話すのは決してやさしいことではない。日本語の問題はもちろん、一番困難なのは、視覚に障害のある人に、どうすれば私の言いたいことを伝え、そして楽しめるのかそれを聞いていた私はとても悩んでいた。
高校から大学院まで美術を専攻してきて、さらに美術を教えた経験を持つ私は、「見る」ことに馴染んでいる。「視覚」に頼って生きてきたとも言える。そんな私は、どうしても絵の歴史的な価値や、制作の技法だけを考えてしまう。無意識のうちに、美術史上の評価や価値が私の見方を左右していた。本で見たことのない作品に対して、自分なりの感想をもつことすらできなかった。今までの私は既存の価値観や審美観に頼ることによって、はじめて作品を解読できた。そんな私は本当に芸術作品を見ているか、本当に芸術を楽しんでいるのか。それはある展覧会に出会ってから初めて気づいたことである。
2003年の夏に世田谷美術館で障害のある作家による「KALEIDOSCOPE―
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人の個性と表現」展であった。そこで、私は全盲の作家、光島貴之さんの作品を初めて見た。外国人の私にとって彼の作品は、当然見たことないし、日本でどう評価されているかも知らない。
しかし、見た瞬間、私は彼の作品に魅了された。素直に好きになったし、この作品を見た歓びを誰かに伝えたいと思い、大事な友達にこの作品を見てほしくなった。光島さんの作品は「力」が溢れている。視覚以外の触感、聴覚などが感じられる。作家は見えない人なのに、作品は人間の微妙な心に訴えている。その感動はいまでも覚えている。
そのときから、私は自分の目に対して疑問を持ち始めた。私はモナリザが有名な絵だから好きなのか? 私は印象派の絵って本当に好きなのか? 美術史上重要な作品だから好きなのか? 皆がいいと評価しているから、私も評価するのか? いつのまにか、私は多数派の意見に引きずられてしまって、絵を見る最初の感動を忘れてしまっていた。晴眼者の私は見えているのに、本当は見えていないのではないの?
埼玉県立近代美術館の展覧会で、光島さんの作品「ねじれ」の前で、晴眼者が全盲の方に作品を説明した時のこと。晴眼者が作品の形から、人参とかお風呂とか解説したが、それを聞いていた全盲の人は「それはきっと心の中のひっかかりを表現しているのではないか」と言った。このように見えない人はこの時、芸術の本質を見たのではないか。
情報と画像が過剰に氾濫している現在、視覚に障害のある人と共に見ることによって、私はとても大事なことに気づいた。作品の前で、世間の価値判断に委ねないで、自分の正直で素直な気持ちで絵を楽しむことが重要だということだ。そして何気ない会話を通して、話す人の人生や経験がまるで一枚の豊かな絵のように心に浮かび上がってくることに。
「言葉で見る」ことは実は「心で見る」ことなのではないか。これは、日本語にせよ、中国語にせよ、英語にせよ、どんな言語でもかけがえのない真実の感情で作品と対峙することだと思う。どんな時代でも、作家は作品を作り出したときに、何かのメッセージを伝えたいのではないか。私たちはこのメッセージを過剰な歴史的、評論的な知識で解読しようとすることによって、最初の意味を読み取ることができなくなっていると思う。
これから先、私の家族や友達、恋人、あるいははじめて会った人と美術を楽しむ時に、私は理論や歴史的な知識、評論の言葉で見るのではなく、「心」で、自分の考えで自分の感情で相手と作品の美しさを分かち合いたいと思う。作品に真正面に向かって、素直にそのメッセージを受け取りたい。そして誰かとその感動を共有したい。
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