MARの鑑賞スタイル―鑑賞はコミュニケーション
MARは活動の目的として「新しい価値観やコミュニケーションを発見すること」を掲げている。MARの活動は、端的にいうならば、美術鑑賞を切り口に人と人が出会い、コミュニケーションをつむぎ、なにかしらの楽しみを得ること。自ら「出会い系」を標榜するように、アートを語り合いつつ、お互いを知り合うプロセスを楽しんでいる。
MARの鑑賞スタイルは「ふつーの人」が「ふつーの言葉」で作品について語りあうもの。特別な知識やノウハウがなくても、「いつでも誰でも気軽に」がキーワード。おおむね、視覚に障害のある人1人と見える人2〜3名が1組で鑑賞する。鑑賞グループのメンバーは、お互いに知り合いである場合もあれば、まったくの初対面である場合もある。
鑑賞しようとする作品の前で、グループメンバーは、作品を見て感じたことを率直に口に出す。その時に共有される視覚情報は必ずしも、客観的事実としての作品の姿というだけでもなく、学術的・歴史的な解説や作品の技法などでもない。その人にとってどのように作品が見え、どのように感じたかを語り、それに対して、また別のメンバーが補足したり、自分はどう感じたかについて応酬したりするのである。見えない人も、彼らの感想に反応して、質問を投げ返したり、メンバーの発言への感想を述べたりする。そのようなやりとりを重ねていくなかで、イメージをふくらませながらお互いの頭の中に作品を創り上げていくように、作品鑑賞をするのである。
雰囲気としては、友達同士が美術館で作品を前にわいわい感想を言いあったり、そこから触発されて別の話題にとんでいろいろな雑談をしている場面を思い浮かべていただければよいであろう。
MARのメンバーが鑑賞に出向くとき、さわれる図版や点字資料などは作成しない。展覧会場の下見や展覧会の内容や作家について事前の勉強もしない。一緒に見る人や作品との一期一会の出会いのなかから、素直な感想を言葉にし、そのやりとりを通じて、違いや共通する感覚を楽しむ。「アート鑑賞とは作品と自分との、そして自分と一緒に鑑賞している人同士のコミュニケーションでもある」という考え方をそのまま具現しているといえる。
とはいえ、自分の感じたことを言葉に表すのは必ずしも簡単なことではない。時に「伝えなくては」という思いにとらわれすぎ、言葉が不自由になることもある。本来一緒に回るメンバーは皆、対等の関係であるはずなのに、ガイドする人・される人の関係性を意識から払拭できずに、必要以上に肩に力が入り、がちがちの鑑賞となってしまうこともある。
一方、メンバーは沈黙もコミュニケーションであることを体感してきている。感動のあまり息を呑んだり、難しくてため息をついたり、絶句したり、言葉を失ったり。これらもまた表現であり、言葉にならない言葉を身体から発散することもまたコミュニケーションであり、お互いにそこから多くのことを感じ合うことが鑑賞であることの実感を深めている。
メンバーのホシノマサハルさんの次の言葉は、MARの鑑賞姿勢を端的に表しているように思える。
「ことばは わたしたちを助けます。
思いにならない ことばは あるにせよ です。
ことば というものは、ひと から生まれるものなのです。(中略)
人から生まれた ことば を通して 人 そのものが伝わるということもあるのです。
見えないものが、あたらしく またみえてくるとしたら。
想像力をもって それを それらすべてを意識しなければ、私たちの あいだには わかりあうということが消えてしまうのではないか と、どうしても思えてならないのです。(後略)」(「MARニュース」第8号)
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