ミニエッセイ
〜視覚障害者の視点〜
MARの鑑賞ツアーに参加した視覚障害者の方からのお便りや、ニュースレターでおなじみの全盲のアーティスト、光島貴之さんの文章を紹介させていただきます。文章を通して、視覚障害の方がいかにみたり感じたりしているのか、少し考えてみていただければと思います。
- 見えない!芸術 鈴木利幸
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- 暗闇は透き通っていた 光島貴之
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- 日比野克彦のワークショップ 光島貴之
見えない!芸術 鈴木利幸
初めに、私は「網膜色素変性症」という、一眼科疾患である視覚障害者で、現在の視力は右・0で、左・光覚です。この疾病は中途失明者が多くみられます。で、美術・芸術に?なのですが、私達は先ほどにも申しましたように、中途失明である、と言う事は個々に違いこそ有りますが、いずれ失明してしまいますが・・・?
そんな暗い話は別として、私が美術に興味を持ったのは、忘れてしまったほど昔の事でしたが、しかし、視覚は失ってしまったが、健常者の時は、普通の生活をしていたもので、当時に認識したものは脳裏に残存しているものです。視覚は失っても、脳裏に映像が残存しているので、次のような楽しみ方が出来るのでは、などと図々しく思っております。折角、健常者と視覚障害者という二つの世界を見るはめになったのですから、これを利用しない手は無いのでは、などと不届き者を地でいく現在です。
例えば、有名な絵画を見たときに?
脳裏では確認作業をします。で、ここで視覚障害者の勝手な想像性を生かして、ボランティアの人達の説明を受けながら、相手は脳裏までは見通せないので、勝手な想像をするのです。作者は有名でも脳裏では自作自演を作り出すのです。つまり、一つの作品に関して、二つの図柄が出来る?と考えます。と言う事は、脳裏で作品を作る!のは勝手なもので、著作権の問題も無いのです。いわゆる想像性を生かして自分なりの作品を作り出せる!という楽しみ方が出来るのだ!
と自負しております。健常者の人達は、視覚障害者!
と言えば、全盲と考えている様子です(経験から)。しかし、中途失明者は違うのですよね?
瞼の裏に、などと言葉で表しますが、我々はそれを体験しているのです。ですから、最大限に利用して、個人の創造性・想像性・感性を発揮して、大いに美術・芸術に親しみませんか?
難しく考える事はありません。また、中途失明者は色覚が脳裏に残されているので勝手な着色もできるのです。子供の頃に体験した“ぬりえ”の着色から始めても良いのでは?
と思います。障害者とて、未来・希望などを持ち合わせているのですから、ちょっと人生に着色しては?
人生をゆっくり歩くのも一興かと思いますが、いかがでしょうか?あらゆる手段で過去の経験・未来への希望を託しては?
などと思い考える昨今です。個人の個性を生かせば、貴方も「芸術家」かもね?
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暗闇は透き通っていた
Dialog in the
Dark KOBE 2000 −まっくらな中での対話− 光島貴之
5月4日、神戸のポートアイランドにあるジーベックホールで行われていた「まっくらな中での対話」に、息子の瀬音と二人で行った。受け付けで予約番号を告げて、時間まで待った。受け付けの雰囲気も、さすがに入場料3000円を裏切らないものだった。
間もなく事務局の金井さんがやってきて、僕の杖に蛍光塗料などが付いていないかどうか、調べたいとの申し出があった。参加者には、それぞれアサガオのツルを巻き付けるための支柱が、杖代わりとして1本ずつ貸し出されることになっていたので、僕ももちろん同じものを持って入ることにした。ストラップも付いていて、軽くスマートにできあがっていた。
いっしょに入場するのは、僕たち二人と後は若い女性3人だった。5、6人を一つのユニットにして、視覚障害者の案内役を一人付けるようになっているので、30分置きに一組ずつ入場している。入り口で案内役の人が紹介される。入場者もそれぞれ自己紹介をしてから杖の使い方などちょっとした説明を受ける。
そして、いよいよまっくらな中に入って行く。初めの設定は、橋を渡って森に入っていくというものだ。ガイドの人の声を目印にして、幅60センチぐらいの橋を渡る。「落ちたらずぶぬれですよ」とおどかされて、みんな杖で足元を探りながら、キャッキャッいいながら渡って行く。瀬音はまだなれなくて、僕にしっかりつかまっている。杖で調べたら、水なんかなくて、ビニールシートのようなものがしいてあった。
森は実際に木が生えていたり、倒れていたり、枯れ葉がしいてあったり、土もちゃんとあった。おもしろい仕掛けとしては、糸電話が空中にぶら下がっていて、歩いていくと顔にぶつかるようになっている。それぞれ参加者が、誰かと通信できるようにしてあるようだった。またある場所では、大きな声を出すとこだまではなく、声が遠くまで吸い取られていく感じを味わえるように仕組まれているようだったが、それはいまいち成功していなかった。
森を出ると街だ。今度は、横断歩道を渡る体験である。実際に車が走ってくる音がする中を渡る。クラクションをならされたりしながら、あわてて渡って行く。僕は、わざとコースをずれてみた。すると、なんと本物の車がおいてあってぶつかるようになっていた。
次は、ヨットハーバーだ。桟橋の少し揺れる感じ、波の音、船が近づいて来る音などなど、なかなかリアルだった。スピーカーだけでも50代使っているそうで、金はかなり掛けているようだ。部屋の反響を防ぐためにも、いろいろ工夫している。僕はみんなから少し外れていろいろ探検してみたが、*茣蓙を鉄柵に掛けて反響を少なくしているのを見つけた。
最後に設定されていたのは、公園である。千葉盲学校の生徒の粘土の作品が二つと、木琴・太鼓など楽器がいくつか列べられていた。そして、腰掛けて乗る二人要のブランコを体験して公園を出る。暗闇の中でのブランコはなかなか恐いようだ。気分が悪くなるという人もいた。この公園でアートに接するというところが、ちょっと弱いようだ。ここに触覚連画を登場させたいのだろうなあと思った。(以前に事務局の人が触覚連画に興味を示し、何かいっしょにできないだろうかという提案があった)
そうそう、プログラムはまだ最後ではなかった。いよいよお楽しみの暗闇のバーである。飲み物はワイン・ビール・オレンジジュース・ウーロン茶が用意されていて、それぞれ好みの物を注文する。バーテンダーも視覚障害者だ。そのバーテンダー、どこかで聞いた声だと思っていたら、神戸大学に通うYという学生だった。実は、彼とはずいぶん前からのつきあいで、彼が小学校に入る前から点字などを教えたりしていた事もある。最近は僕の展覧会にも来てくれている。学芸員の資格を取ろうとしているらしい。思わぬところで出会ってお互いビックリ!
バーでは、お互いの感想などを話すようになっていたが、ビールをもう一杯という雰囲気ではなかったのが残念だった。お酒を注文した人の感想では、暗闇の方が酔いが回りやすいと言っていた。
バーを出ると少し明るくした部屋に出る。そこには、スケッチブックが用意されていて、それぞれ思い思いの絵を描くようになっていた。その部屋担当の人も配置されている。少し心理学でも勉強しているような人が担当しているのではないだろうか。そんな感じだった。いきなり明るい世界に出ると、ちょっととまどう人もいるとかで、絵を描きながら見える世界への復帰を準備するようになっていた。
さて、瀬音の感想は、「いつものよりもおもしろかった!」だった。“いつもの”とは、僕の作品のことだ。見える人にとってまっくらというのは本当にたいへんなことなんですね。瀬音は、バーで椅子に座るのさえ苦労していた。歩くよりもかえって目的の椅子に腰を掛けるという動作の方が難しいようだ。
「そんなにまっくらやったか?」と聞くと
「ほんまにまっくらやで!! なんにも見えへんで。うす明かりでも少しあったら何とかなるけど」
と言っていた。
僕は、暗闇についての記憶をたどってみたが、本当の暗闇の記憶がない。中途半端な見え方しかしていなかったので、まっくらという記憶がないのだろうか?
少年時代を過ごした家には、裏庭があった。子どもにとってはかなり広い庭に思えていた。夜、そっとその庭に出てみても、僕には昼間の庭に関する身体感覚が染み着いていて、暗闇の中で、庭がぼんやりと浮かび上がるのだった。この感覚は、見えている人でも同じだろうか? しかし僕の場合、始めての暗闇であっても、子どもの頃から身に付けていた対物知覚のおかげて、何かがあることはすぐに察知できた。だから真の暗闇体験がないのかもしれない。
今回体験したジーベックホールでも、暗いという感覚はぜんぜんなかった。天井はかなり高そうだけれども、音の反響はなく、スッキリとすみきった感じ
。すべてのものがクリアに感じられる空間だった。見える人が教えてくれる
“一片の雲もない青空”とは、こんな感じだろうか。その青空の下で自由に動きまわっているように感じられたのは、周りに自由を失った人々がいたからだろうか。僕自身は日常と変わりないのだが、相対的にみて僕は自由になっていた。
このプログラムは、アートの作品に触るのが目的だと思っていたが、実際には、街空間を擬似的に作り出してそこを視覚以外の感覚を動員して体験していくというものだった。決まったかたちがあるわけではなく、そのときどき、会場に合わせてさまざまな設定が行われているようだった。
この疑似空間、見える人にとっては二度と見られない街を体験したということになりますね。でもこれはアートと呼ぶにふさわしいのか? どちらかというと、ワークショップではないだろうか。見える人にかなりのインパクトを与えているのは確かですね。
この企画は見える人をお客さんにして、視覚障害者が見えない世界を案内するという、今の社会構造を逆転した関係が成り立っているところがおもしろい。言うなら、僕は同業者である。同業者がお客さんとしてまぎれこんだのは、ガイドしている人にはずいぶんやりにくかっただろう。このプログラムを本当に楽しんだのは、見える世界に住む人々だ。しかし、僕もそれなりにかなり楽しませていただいた。その事を明らかにしようとしてこのレポートができあがった。
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日比野克彦のワークショップ 光島貴之
去る10月9日、日比野克彦を招いてミューズカンパニーのワークショップが、新大久保の東京グローブ座・Aスタジオで行われた。
会場に入ってみると、あちらからもこちらからも知り合いの声が聞こえてきて、同窓会のような雰囲気でもあった。おそらく、30人以上の参加者があったのだろう。その内、視覚障害者が7、8人。しかも年齢層は、10才ぐらいからかなりの年輩までさまざまだった。美術系のワークショップで、これだけの視覚障害者を集められる企画はあまりなかったように思う。それだけ美術と視覚障害者との間にはまだまだ隔たりがある。
僕は直前まで、参加するかどうかを迷っていた。なぜかというと、日比野さんには2年前、兵庫県立近代美術館で行われた展覧会「アート・ナウ98'―――アウトサイダー・アートの断面」で出会っている。そのときの関連イベントとして行われたトークショーは、すずかけ共同作業所でアートボランティアをしている、絵本作家のはたよしこと日比野克彦との対談だった。その会場で、僕が質問をさせていただいたいきさつがある。
当時、なにを質問したのか? 明確には憶えていない。たしか彼は、知的障害の人たちとのコラボレーションに付いて話していた。でも僕は、彼と、知的障害者との間に距離感があるのを感じとっていた。アートという同じ土俵に上がりながら、対等な関係だといいながら、実際には隔たりが存在しているのではないか!? そのあたりのことを質問させていただいたと思う。
「アート・ナウ」には、僕も作品を出品していた。そんなこともあって、 「この問題に付いては、作品で勝負するしかない!」という答えをいただいた。けっこう生意気で、いけ好かないやつだと思ったが、障害者におもねることなく、自分のアーティストとしての立場から、ハッキリものを言う人だという点は高く評価したいと思った。
それ以来僕は、きっとその内にもう一度「日比野克彦の前に作品を持って現れなければならない!」と思い始めた。
それからもう2年もたっているのだが、今回のワークショップのことを聞いたとき、その時期はまだ熟してはいないだろうと思ったりして考え込んだ次第だ。
超多忙な有名人がそんな一言を憶えているはずもないし、(事実そうだったのだが)結局あまり深く考えないことにして、チャンスは生かそうと思って参加することにした。
日比野さんの印象は、以前とかなり違っていた。トークショーのときは、ご自身の展覧会前でかなりイライラされていたように思う。今回は休日の雨ということもあったのか、ずいぶんゆったりした気分で話が進んでいった。最後まで、テンションが上がることはなかった。視覚障害者をたくさん前にして、ちょっととまどわれていたのかもしれない。
まず彼は、視覚障害者の参加者数人から、
「どんな風に見えているのか? それともぜんぜん見えていないのか?」
「夢の中に色が出てくるか?」
「いつ頃見えなくなって、色をどんな風に認識しているのか?」
などの疑問をインタビュー形式で聞き始めた。
しかし、失明時期もそれぞれ違うし、色に対する捉え方もそれぞれ違う。一般的には扱えないのだということが分かったところで、やっとワークショップが始まった。
最初は、口腔内のイメージを紙粘土で作るという課題だ。自分の口の中を、その場で見ることのできる人は誰もいない。舌でさぐるしかない。見える人も見えない人も同じ条件だ。後はいかに想像力を働かせるかだ!!というのがこの試みの意図らしい。どこかのコマーシャルで見たようなポリデントの入れ歯を作るのはダメだということで、みんな悩みながら作った。参加者全員の作品を触る時間はなくて、同じテーブルに居合わせた4人で作品を回して鑑賞した。
僕の作ったのは、『ある日、歯医者さんから帰ってきて』というタイトルで、麻酔が掛けられて口の半分が感覚的には失われている状態を作った。そして、抜かれてしまった、蝕まれた大きな奥歯を横に添えた。
僕の向に座っていた中尾さんは、はてしなく続く洞窟のイメージを口の中の感じと重ね合わせていたようだ。湿り気も持たせて中もつややかに仕上げられていた。僕の作品とは正反対でロマンチックな作品だった。
午後からの課題は、新聞紙やダンボール、いろんな手触りの紙を使っての作品づくりとなった。ただそれらを使って何か作りなさいというのではない。まず、自分が今仲良くしている人たちを名字ではなく、名前か相性で10人書く。次に幼年時代、仲良くしていた人の名前を書く。そして、その中でもっとも古い記憶にある友達を思い出しながら、先ほどの材料で作品を作るのである。
僕の記憶をさかのぼってたどり着く名前は、「みほちゃん」だ。幼稚園のときに近所に住んでいた女の子で、間もなく引越していった。当時の視力では、みほちゃんの姿を遠くから見えるはずはない。近寄ってしゃべった記憶もない。でもなぜか気になる存在だった。
僕は、暫く考えた後、いつもの悪い癖で、勢いにまかせて何か手触りのおもしろい立体を作ってやろうと新聞紙を丸め始めた。
これらの記憶をさかのぼって作った立体作品も、ワークショップの時間内にはゆっくり触る時間がなかったので、終了後、どんな作品ができているのか中尾さんに案内してもらいながら見て回った。大まかには、四角い紙の上に箱庭式に作られたものと、僕の作品のように立体的に制作されたものに別れていたように思う。それぞれ特徴のある個性的な作品ができあがっていた。指導者の影響を受けた、日比野克彦らしい作品群にはなっていなかったところがおもしろいし、そのあたりが大したものだ。このあたりが講師の力量の現れだろう。
プログラムはこれだけではなかった。これで終わったのでは、どこにでもあるワークショップに毛の生えたようなものだ。
僕たちが廃材で作業をしている間に何やら絵の具の匂いがしてくると思ったら、7、8メートルほどの壁に真っ白な紙が貼られ、そこに絵をみんなで描くという作業が待っていた。そしてその壁の前には、手前に午前中から作った口腔内の紙粘土の作品が列べられた。その奥の壁際の方には、先ほど作った、もっとも古い記憶に残る人の名前から作り上げられた作品群がランダムに列べられた。その間を壁に向かっての通路が作られ、一人ずつ前に進み出て、好みの色で壁にペイントするのだ。
このような情景を中尾さんに説明してもらいながら、僕の頭の中ではミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる一場面にこんなのなかったかなあと想像をめぐらしていた。記憶をさかのぼり、過去の世界に踏み込んで、それから、“いま”の自分とはもっとも離れた遠い世界に入っていく。そこは、障害者であろうがなかろうが、誰もが持っている想像の世界だと彼は言いたげだった。
〈何かものを作り始めたとき、あるいは、想像をめぐらすとき、僕たちは、現実の世界から遠く離れていく。そのような体験は誰にでもあると思う。アーティストはその現実世界ともう一つの想像の世界との間に存在する壁を簡単に乗り越えられる人たちではないだろうか。もう一つの世界にいったまま帰ってこない人たちもいる。そのような人たちが知的障害者と呼ばれたりする。
ワークショップで作家が伝えたいものはそれぞれ違う。僕が参加して得たいものは、技術や技ではない。作家の制作の原点をかいま見たいのだ。彼は、あの想像の世界で遊ぶおもしろさを、参加者に伝えたかったのだろう。〉
まず、日比野さんが、左端と、中央より少し左寄りと、そして右上にきっかけとなる絵を描いた。左下は、緑でストレートなキュウリを10本ほど。まん中には黄色で、鍵穴のようなかたち。右上は、十文字を赤で描いた。
最初は視覚障害者を含む10人ぐらいが、促されるままに一人ずつ前に進み出て、順に描いていった。 壁に描かれて行くままを、日比野さんがスキャニングするように言葉にしていくのだが、抽象的なものを言葉にしていくのはかなりたいへんな作業だ。説明する人の気分が反映される。僕は、構図だけを頭に叩き込むようにして順番を待った。でないと壁全体の中での位置関係が分からないまま描くことになってしまう。
5番目ぐらいに呼び出された僕は、進み出る前から、日比野克彦の描いた黄色い鍵穴のかたちにかぶせて、オレンジ色で大きく一筆書きをしてやろうと思っていたので、かなり大きな刷毛を手にした。黄色い丸の中央から右に向かって描き始めた。ほとんどは曲線で、一ヶ所鋭角的なところのあるいつものかたちができあがっているはずだ。確認できないところが致命的だが、最後は左手を置いておいたところに戻って来たので、図としては完結していると思う。描き終わった頃、町山君がレトララインを持ってきてくれた。彼は、普通小学校に通う全盲の男の子だ。いつも個展のときなど、遠く小田原から見に来てくれる。僕の得意技は、ラインテープで描くことだと知っての援軍だったが、今回は、日比野克彦のワークショップ。与えられた画材でできるだけのことをしてみよ
うと思っていたので、そのテープは使わなかった。
時間の関係もあって、残りの人たちは、10人ずつぐらい同時に前に出て描くことになった。最初、頭の中で整理されていたはずの構図は、僕自身が描いてからは緊張感もなくなり、画面に絵が増えるごとに脳細胞はパニックになっていった。そして、徐々に全体像が思い浮かべられなくなった。たぶん他の視覚障害者もそんな感じだったのではないだろうか。
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最後にオプションがあった。ミューズカンパニーの伊地知さんの発案で、壁に掛かれた絵を左から順にピアノと、声と、ダンスで即興的に表現しようという試みだ。長年ダンスや音楽のワークショップで培われたノウハウを、一気に公開しようというものらしかった。僕にはダンスは分からないが、声とピアノのコラボレーションはなかなかのものだった。それ自体のおもしろさは十分伝わってきた。しかし、その表現が壁に掛かれた絵を伝えるものかどうかそのあたりはかなり疑問が残った。残念ながら、その即興音楽とともには、僕の頭の中に絵は思い描けなかった。
朝から雷混じりで降り続いていた雨も上がって外に出ると、さわやかな秋の空気が漂っていた。いつの日か、僕の作品を日比野克彦に見せるのだという思いを新たにして新幹線で京都に向かった。
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