私たちと一緒に美術鑑賞するロボットを作ることはできるでしょうか。ロボットの目にはデジタルカメラが装備され、パシャッという音とともに一瞬にしてフェルメールの作品が取り込まれます。インターネットにアクセスすれば、作風や時代背景などの情報も一瞬にして取り寄せることができます。でも、それで美術鑑賞をしたとは言われたくない。誰が見ても客観的な画像データと正確な肩書き情報を入手しているのに、一体、何が欠けているのでしょうか。そんな問題意識をもっていたときに、視覚に障害のある方々との美術鑑賞に出会いました。美術作品を前に言葉を交わしながら鑑賞するというスタイルは、そんなロボットに足りないもの、コミュニケーションの大切さを教えてくれたのです。
美術作品を言葉で伝えると聞くと、「そんな野暮なことを」と評する方もおられるかもしれません。しかし、視覚に障害のある方々を前に、私たちが言葉をつぐんでいてはいられません。語彙の不十分さを嘆いてもいられません。ただ、美術作品を前に自らが感じた印象を言葉に表していくだけです。もちろん、初めて取り組む人にとってみれば、迷いやためらいがないわけではありません。「絵をありのまま、客観的に伝えるなんてできるのだろうか」「私の説明で本当に大丈夫だろうか」と、いろいろな思いがプレッシャーとなって言葉をつまらせてしまいます。
情報学の研究者としていろいろなコミュニケーションをみてきた経験から言えることは、「客観的に伝えようと気負う必要はなく、ありのまま感じたことを言葉にして欲しい」、ということです。
美術作品を前に言葉を交し合うとき、「やわらかい光」や「あたたかい色」といった視覚刺激を修飾する形容詞を頻繁に駆使している自分に気づくことがあります。ここで興味深いのは、「やわらかい」や「あたたかい」という形容詞は、そもそも触覚や温感のように肌で感じる感覚的表現だということです。また、美術作品とは異なりますが、「甘い声」というよく耳にする聴覚経験も、舌で感じるはずの味覚的表現が用いられています。
私たち人間は、視覚や聴覚を高度に発達させたことで、今の文明社会を築いたといわれていますが、その目や耳で経験したことが、日常的に肌や舌で感じるような感覚的表現を多用し、五感を総動員して感じていたのです。何気なく交わされる私たちの言葉には、そういった感覚同士の連なりを証明するかのような共感覚的表現が多分に含まれているのです。
客観的事実の伝達に必要以上にこだわってしまうと、例えば絵画の構図や、描かれている登場人物の数など、誰が見ても同じに見えることがらばかりに固執してしまいます。共感覚的表現の存在は、むしろまったく逆、とことん主観的に自分の五感が感じたありのままを言葉に表す勇気を与えてくれるのです。嘘や偽りを伝えることは論外ですが、主観的に感じた印象を、五感を総動員してありのままに伝えればこそ、視覚に障害のある方々にとっても感覚を総動員して美術作品を感じるきっかけを提供できるのかも知れません。
言葉が視覚にとってかわるなどと言いたいのではありません。主観であることを素直に受け入れ、ありのままに感じたことを言葉にするだけです。たった一人で絵と向き合う場合とは、また違った出会いになると思います。もちろん徹底した主観的な感覚表現を頼りにしますので、異なるパートナーと言葉を交わせば、同一の美術作品であってもまた違った印象を受けると思います。しかし、それもコミュニケーションの本質です。たった一度、言葉を交わしただけでその美術作品のすべてを感じることなどとてもできません。百者百様の感じ方が存在し、それは百通りの真実なのです。百人の言葉が百通りの美術作品を見せてくれると思います。
きっと、百聞は一見をしのぐ。
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