世の中には、危険だとか、壊れやすいという理由でさわれないものがある。しかし、それらは慎重に扱えばさわれる。一方で、どうしたってさわってもわからないもの―絵画や写真、風景など―というものも存在する。ぼくは、それらのさわれないものを、どういうふうにして認識してきたのだろう?
子どもの頃のぼくは、スポーツカー・飛行機・戦車・ロケットが好きだった。それらをさわりたいという望みをかなえるために、母親は、博覧会や野外の展示場に連れて行ってくれた。しかし、それらを納得いくまでさわれたわけではない。手が届くところは限られている。監視の人にも止められる。帰ってから、油粘土でかたちを再現してもらって、もののかたちを認識していった。それらの作業に常に寄り添っていたのは、言葉である。言葉での説明抜きにはけっして全体像は認識できなかったと思う。しかし、さわれない部分を言葉で補っていたということは、つい最近まで忘れていた。そのうち、もののかたちにたいする興味は、プラモデルに移った。
全体像を把握するには、ミニチュア模型が役立つ。やがて、決められたかたちにしかならないプラモデルに飽きた頃、中学部の美術の時間に、粘土でオブジェを作るようになった。当時、美術の先生にぶつけた質問は、「作品を作っていても、いったい世の中にある美術作品とはどんなものか、そのかたちが知りたい!」というものだった。
大学 3
回生の頃、ピカソをみに行った。ちょっとあこがれていた人を誘った。でも少し不安だということで、もう
1 人増えて、3
人で行くことになった。見えない人1人にたいして、見える人 2
人というビューでやっている鑑賞のスタイルだ。でもそのときは、さわりたいという欲求が勝っていて、せっかく言葉での鑑賞を試みているのに、やっぱり言葉では無理だという結論を導き出してしまった。若かったのか、ぼくがあわて者だったのか、いまから思うと言葉による鑑賞のチャンスを、絵画との関わりを、みすみす逃してしまったのだ。
鍼の仕事を始めて10年後、なにかを作りたいという思いは、粘土造形のワークショップに出会って体中に満ちあふれていた。しばらくは、粘土に没頭する。その頃は、さわれるものがすべてだった。さわれないものが、世の中に存在することは不条理だった。
それから 3
年後、全盲の石彫作家フラービオ・ティトロのスケッチブックに触れたのがきっかけで、絵を描きはじめた。自分の描いた絵が額に入り、アクリル板で覆われる。絵は、さわれなくなる。でも、ぼくの絵は、そこに存在し続けている。描いた絵を写真に撮ってもらう。アルバムにして人に見せる。「この絵は、どんなモチーフで描いたのですか?」と聞かれても、ぼくにはなんの絵かわからない。自分が描いた絵にもかかわらず、質問した人に、その絵を言葉で説明してもらわなければならない。描き終えて忘れていた色やかたちが、言葉によって戻ってくる。新たなイメージが与えられる。さわりながら描いていたときよりも、絵のイメージが広がる。
描くようになってから、世の中にさわれないものがたくさん存在することにあらためて気がついた。遅いよなあ! 長い間損をしてきたような気がしている。さわれないものも、見えないものも聞いてしまおう。読んでしまおう。
ビューのある時の鑑賞ツアー。ぼくは、気分が滅入っていた。日本画の三橋節子の絵だった。鑑賞したのも、悲しい絵だった。本格的に気分が滅入った。絵をみるのは、楽しいことばかりではない。
絵によって悲しい気分が、よりいっそう高まることもあるのだ。それほど、内面を突き動かす力で対話が展開された。言葉による鑑賞がただならぬものだと実感した。
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