現代アートを切り口に、人びとの生きる力を高め、共生社会・インクルーシブな社会づくりに向けて、丁寧なコミュニケーションを大切にしながら、水戸芸術館現代美術センターにおいてさまざまな展開をされている逢坂恵理子さん、森山純子さんに、アートの意味、美術館の存在意義・あり方などについてうかがった。
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価値は人の心の中に
世の中にアートを日常的に身近なものと考えている人は必ずしも多くはないといえよう。
おおづかみな数字であるが、アートを普段の生活の中で不可欠のものと考えている人は約1割程度であり、さらに、現代アートの場合は、1
〜 3
%程度しかいないといわれている。一般に、アートあるいは美術、という言葉を聞いて人びとがイメージするものは「なにか高尚なもの」「贅沢なもの」「権威のあるもの」「勉強して理解するもの」であり、「自分には関係のないもの」「大切に美術館に収蔵されている高価なもの」というのが大方の考えである。
しかし、いま美術館に収蔵されている作品でも、かつて、それらの作品が描かれたりつくられた時には、必ずしも高い評価を得られていたわけではなかったものが多々あることも忘れてはならない。一方、それらの作品が現代まで生き長らえてきたことには、それぞれにストーリーがあり、それぞれに意味があったことも事実であろう。また、偶然の産物によって評価が高まったものもないとはいえない。ことほどさように、アートの意味は絶対的なものでもなく、アートの価値も一定ではない。
作品の価値あるいは作品の鑑賞の仕方に断固とした基準があるものでも一つの正解があるわけでもない。鑑賞する時・場・環境・体調や心理状態などによっても、作品への印象が大きく変わるし、自分にとっての意味づけもまったく異なることは往々にしておこることである。
アートは万人に開かれたものであるが、一方でとても個人的なものである。万人がよし、とするものもあるかもしれないが、多くの人が評価しなくても、一人の人にとって、かけがえのない大切な作品となるものもあり、一人の人が好き・大切、と思うこと、それだけでその作品には価値があるといえる。アートの価値は見る人の心の中にある、といっても過言ではない。
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アートは生きる力をはぐくむ
アートはそのように一定ではない存在であるがゆえに、人びとに柔軟な視点をはぐくむツールにもなり、現代のように、価値も先行きも不透明で混沌とした時代、私たちを支えてくれるものとなり得るのである。
世はあげて、「共生の時代」などというが、21世紀はますます対立と争いが深まるばかりのスタートとなり、共生からはほど遠い現実がある。そのようななか、アートを核にしていかに共生社会を創造できるか、いかにインクルーシブな社会をつくっていくことができるだろうか。
現代アートは、いま生きているアーティストが、いま私たちが直面している時代のさまざまな断面を作品に反映させている、という点から、私たちに多くの示唆を与え得る可能性を秘めている。アーティストが常に新しい表現を求めていくなか、アートを鑑賞することを通して、私たちはとても多様な表現にぶつかることになる。そのことは、私たちに、異なる価値観や考え方などを認めて生きていくことの大切さを示してくれる。人は、とかく見たこともないもの、未知のもの、知らないことに向き合うことに消極的になりがちである。新しい人に出会った時、その人がとても価値観の違う人であった場合、私たちはその違いを認め、こちらから心を開くことに躊躇しがちであり、本当の意味で知り合いになるのには時間がかかる。新しいアート作品に出会うことは、いわば未知の人に出会うことに実によく似ているといえよう。
水戸芸術館で開催された
“Living Together is
Easy”という展覧会のタイトルは、実にアイロニカルな反語表現に満ちている。直訳すれば、「共生はたやすい」となるが、現実は、まったく逆である。そのことにより、私たちが自らの目でリアリティを直視し、日常に思いをはせることを促しているのである。
アートは私たちに、自分たちがそれらをどう考え、どう見るか、つまり、自分がどういう人生を生きたいのか、どういう人間として生きていきたいのか、自分が生きている社会や地域、人とどうかかわりたいのか、ということを問うてくるものである。
「現代アートでは、いま生きている、新しい表現を模索するアーティストや作品に出会うことによって、人間がもっている幅広さ、豊かな受容性、規定されていながらも限りなくその規定の枠を広げていこうとする可能性を感じることができる。そのことは、例えば障害のある人たちと一緒に行動することによって、私たちがもっている先入観や偏見などが払拭されて、障害のある人からさまざまなことを教えられる経験をするのと似たところがある」と逢坂さんはいう。そして「アートが内包する豊かさや、幅広さ、他者の視点、多様性は、自分の日々の生活の中に反映させることができるもの」であると。
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数値による評価ではなく
日本では多くの美術館がこれまで自治体立など、公的な資金によって運営されてきたが、自治体の財政が逼迫するにつれ、独立行政法人化や補助金の削減がおきている。また、美術館について行政評価・事業評価などを行うことが求められ、その存在意義を、観客動員数や、売上げなど、数値化されたもので示す傾向が益々強くなってきている。公立の美術館の場合「税金が投入されているのだから“多数の市民”に有用なものを」という論法も適用される。
しかし、アートほど数値化になじまない領域もない。美術館のようなアート関係の施設の本来の評価基準は、求めている人にどれだけのものを届けることができたか、どれだけ人の心に響くものを提供できたか、ということにあるはずである。一人でもそれを必要と感じる人がいればそれはその人のために存在する価値はあるはずである。アートは、少数の人しか必要としていない、という理由で切り捨てられるべきものではなく、それは、社会福祉サービスの価値と共通するものがあるといえよう。
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美術館は教育の場
逢坂さんの言葉を引用するならば、美術館は「学校教育とはまた異なった人間教育の場で、社会教育の場でもある。上からの一方的な教育ではなく、自分たちが、自発的に美術と向き合うことにより、体験を通して実感できる場であり、そのことにより非常にエキサイティングで楽しい学びができるはず」である。そして「美術の鑑賞をつきつめていくと読解力をつけること、つまり、目の前にあるものを単純に鵜呑みにするのではなく、自らの目で、きちんとみつめ、自らの視点で考え、発見をする訓練の場であるはず」であるとも。作品鑑賞というものは、目の前にあるものだけを見るのではなく、その背後にあるものを読み取ることであり、ある時には、アーティストが意図して表現していないことまで感じ取る・読み取ることもある。見る人の数だけ鑑賞方法がある、といわれる所以である。
そして、その時に問われるのが、見る側の自立性、つまり、他の人がよいといったからよいと見るのではなく、自分自身の価値観や考え方・感性に立脚して、それをどう考えどう思うのか。つまり、自分の生き方からの視点が必要となってくるのである。
そういう意味からも美術館を「自分たちが生きて行く上で、どう機能する場なのか、美術が存在する意義はどういうものなのかという基本を、もっと伝えていける場」にしてゆきたいと逢坂さんたちは言うのである。
教育の場、生きる力をはぐくむ場、としての美術館であるならば、学校とのつながりが大きな意味をもつことになる。しかしながら、残念なことに、昨今、学校現場は、忙しすぎることに加え、定まった評価・固定した価値・ひとつの正解を見せることができない現代アートを生徒たちに見せることを躊躇する傾向にある。
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柔軟な運営姿勢
水戸芸術館は 3
つの機能(音楽・演劇・現代美術)の集合体であり、それぞれの部門ごとに企画運営にあたる専門スタッフがいる。現代美術センターは文字通り、現代に生きているアート作品を扱う部門だ。コレクションをもたず、そのため常設展はなく、企画展とそれに付随するさまざまなセミナーやワークショップなどを中心的な活動としている。水戸芸術館は公設(市)であるが、運営は財団法人が行っている。上記
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部門は、いわばそれぞれが独立した組織体として動いており、必要に応じて、部門ごとに独自の資金調達を行ったり、企業や個人の協力を求めるなど、実にさまざまな業務を遂行している。企画展で不可思議な資材(古新聞150トンとか、桜の枝
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トンなどといったような)を求められても動じないふところの深さもある。
「カフェ・イン・水戸(後述)」という展覧会を実施した時も、水戸の青年会議所や多様な企業に協賛や協力を求めたり、商店等の協力を得て街中で作品展示をするなど、美術部門独自の動き方をしている。
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市民生活の中に現代アートをもちこむ試み
「カフェ・イン・水戸」という展覧会は、現代アートを普及させ、また、普段、現代アートなどに接する機会がない人の現代アートに対する先入観を払拭するために実施された。名称は、「Communicable
Action for
Everybody(すべての人にコミュニケーション可能な行動)」というタイトルの頭文字をつなげたもので、人びとが集うカフェとも掛け合わせたネーミングである。水戸の中心市街地にある芸術館と空き店舗の目立つ商店街をつないで、人びとが散策をしながらアートとの出会いを楽しめる場を提供した。
街中で単に展示してもインパクトが弱い、と、商工会議所等の協力も得て、言葉のアーティストによる作品である紙袋を商店に配布した。商品を入れてもらい、街中に「いつでも、どこでも、誰とでも」という紙袋を持った人が歩き回れば格好の広報ツールとなる。また、銀行のATM(現金自動預入れ支払い機−水戸芸術館の英名Art
Tower
Mitoの頭文字と同じ)の横にある現金用封筒にもやはり言葉の作品を印刷し、アート作品との思いがけない出会いを誘発させる試みなど実にユニークだ。芸術館の広場では、横浜のトリエンナーレで一世を風靡した巨大バッタが登場。老若男女がその存在や質感を楽しんだ。
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開かれた美術館を体現するひとつの形
―ボランティアの参画
上記のような企画事業を成功させるためには、市民参加・ボランティアの参画が欠かせない。
芸術館では、平時からボランティアの活躍がめざましい。これは、市民の参画を得て、市民と共に、プロフェッショナルだがより開かれた美術館をつくっていきたい、という芸術館スタッフの姿勢の現れといえよう。
実際、ボランティアのかかわりは実に多岐にわたり、企画展の準備・運営の補助、アーティストのアシスタント、ギャラリー・トークなど、さまざまな形で美術館の運営にかかわる。2004年のカフェ・イン・水戸の際には、巨大バッタの設営、その他、作品制作の補助、作品管理、広報活動などに、200人以上のボランティアがかかわっている。
レギュラーに行われている対話によるギャラリー・トークを担当するボランティアだけは選考を必要とするが、それ以外の人は登録制である。とはいってもギャラリー・トークに参加するボランティアがアートの専門家というわけではない。現在、20代〜70代まで、まさしく老若男女、サラリーマン、主婦、先生など、いろいろな背景をもった人びとが活躍している。何かしら心に思うものをかかえ、アートにかかわることによって何かを感じたい、何かを得たい、という気持ちをもっている人が多いようである。また、必ずしも水戸市民にかぎらず、遠く、東京など県外から通ってくるボランティアもいるという。
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時代の価値観を探るギャラリー・トーク
ギャラリー・トークは、企画展の際、土曜と日曜、午後2時半から行われている。多い時は1グループ6〜7人、少なければマンツーマンで展覧会を一緒に回り、作品解説をするのではなく、観客とトーカーが対話を通して作品について語りあう。
トークを始めることになったきっかけは、水戸芸術館の場合、作品がその場で創られたり、価値が定まっていない作品や、同時代を生きている若手作家の作品が展示されることが多く、いままでのように一方的な解説型のトークでいいのだろうかと、いう疑問が呈されたことに端を発している。現代美術館は「いま私たちが生きている時代の価値観を探る場所である」という意識から、観客とトーカーが目の前の作品について語り合うことのほうが、よりリアルに作品を体験できるのではないか、と考えたのである。
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対話による鑑賞から見えてくること
ボランティアのなかには、時にどう向き合ったらよいかわからない作品に出会った際、そのわからなさについて「まずはギャラリーで楽しみ、何年か後に、あ〜、あれはそういうことだったのだ、というような発見ができることを楽しみに待つことで、自分がその作品と共に生きていくことになるのです」という人もいる。
そして、そのような見方について逢坂さん、森山さんは、「どうやって見たらいいかわからないところがあるからこそ、あなたはどう思いますか、と考えることにつながっていく。そして、(ボランティアも観客も)それぞれ思っていることも、気になるところも違うから、一人で見るよりも、ギャラリー・トークで会話しながら鑑賞することがおもしろい」という。
ギャラリー・トークは、コミュニケーションを通した鑑賞であるが、そこには、作品と自分、共に鑑賞している他者と自分、あるいは自分自身とのコミュニケーションなど、あらゆる側面がある。いろいろなアートに出会い、いろいろな考え方に出会うことにより、自分自身の目が開かれ、世界が広がる。特に現代アートは、現代社会のさまざまな側面を究極的な表現で切り取っている場合も多く、ボランティアの中には、ギャラリー・トークを通して世界とのつながりを実感し、自らと社会との関係を考えるようになった、という人もいるという。
そして、学びを得るのは、ボランティアだけではなく、共に作品を鑑賞した人たちでもあり、芸術館のスタッフたちでもある。
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対等な関係づくりから―NPOとの連携
最近はまた、限られたスタッフ数、限られた予算などのなか、より広い市民に展覧会などについて知らせ、参加を得るために、子育て系のNPOやまちづくり系のNPOとの連携もはじまっている。
基本姿勢は、共に考え、共に展開していく対等な関係性のもとに、互いの強み・弱みを活用・補完しあいながら、より効果的な活動を展開しようというものであり、NPOであれば何でもよいわけではない。NPOとしての専門性・プロフェッショナルな資質をきちんともっており、共感できることが不可欠である。
例えば、「カフェ・イン・水戸」の際、NPOに紹介冊子を作成してもらうことにより、より自由な発想の内容になったり、子育て支援のNPOの機関紙を通じて、いままであまり芸術館の情報が行きわたらない人たちにも情報が伝わる効果があった。また、地域資源の活用を目的としたNPOを通じて、「ハイク・クルーズ」を企画。街を歩きながら、作品に出会い、かつ俳句をひねる、というワークショップには、年配者など、現代アートとはあまりかかわりのない人たちの参加が得られたという。
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多様なアクターが参加してこそ
開かれた美術館はつくられる
ボランティアはまた「外の風をもちこむ」意味でもとても大切な役割を芸術館に果たしている。スタッフの目線では思い至らないようなことがらに忌憚のない意見をくれたり、お客さんの身になっての提言などをしてくれる点からも大切な存在である。
また、逢坂さんも森山さんも、美術館(あるいは水戸芸術館全体)は「専門職のみならず、受付やミュージアム・ショップ、監視あるいはおそうじの人も含めて、かかわる人すべての協働で運営されるべきもの」と考えている。観客たちは、まさしく、受付の人の態度や、監視の人たちの態度・言動で美術館の印象を決めてしまうといっても過言ではない。さまざまな形で美術館にかかわる人の総意をもって、開かれた美術館、ホスピタリティにあふれた美術館が醸成されるのである。
最近の流れとして、予算のカットや人員削減の影響から、案内を映像や音声テープに切り替えたり、あるいは、受付や監視の人たちを外注化する傾向が強くなっている。しかし、逢坂さん・森山さんは「美術館というものは常にマンツーマンの対話の場であるべき。IT社会になったとしても、人と人とのコミュニケーションを大切にすることによって、美術館は生きていく。その辺りを大切にしないと、本来の美術館のよさを十全には引き出せない」と力説する。
丁寧に市民に対峙し、丁寧に市民とのコミュニケーションを深め、市民の理解と協力を得ていくことしかないのであろう。
水戸芸術館の場合、来館した人、あるいは参加した人には、ある程度その存在意義は伝わり、理解と支援を得られる素地は醸成できてきているといえるが、来館しない多くの市民にどのように理解を広げていくか、いかに現代アートのわかりにくさ、閉鎖的なイメージを打破していくか、まだまだバリアは高いといえよう。地域の文化資源としての美術館をいきいきとした場にしてゆくのは、館側の努力とともに、館を利用する市民の共感や積極的なかかわりも不可欠であるといえよう。
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