ある日、電車を降りたところで年配の女性に話しかけられたことがあった。その人は私が座っていた座席のすぐ前に立って私を見ながら、目の見えない人はどんな楽しみがあるのだろうと考えていたそうである。彼女は嬉しそうに私にこう言った。「あなたにも音楽なら楽しめるでしょう。頑張って生きていってください」。私は一瞬何と答えていいか途方にくれてしまった。私には楽しみがたくさんある。なかでも最も好きなことは美術鑑賞なのである。その女性に、私が美術を心の糧にして、悩みながらも楽しく生きていることをわかってほしいと思ったが、混雑した駅のホームで話すには込み入りすぎている話題だったので「ありがとうございます」とだけ言って別れた。彼女のように直接話しかけることはしなくても同じように考えている人は多いかもしれない。そこで私は彼女に話したかったことをここに書いてみようと思う。
私は 1
歳半の時、病気のため失明した。母の話では、目が見えていた頃、私はとても絵の好きな子どもで、本の挿絵を何時間も飽きずに眺めていたそうである。中学生になった頃から、やはり絵が好きだった姉に連れられて時々美術館へも出かけた。ところがそこには必ず「作品には絶対に手を触れないでください」という注意書きがある。目で見ること以外の方法で世界を認識しようと一生懸命だった私にとってそれは本当に残念なことであった。
私が初めて美術館で心を動かされる体験をしたのは大学生になって、アメリカのミネアポリスに住む友人の家に滞在していた時だった。ある日、私たちは美術館へ出かけることになった。「彫刻かクラフトに触ってみることはできる?」と私が言うと、彼女は即座に受話器を取り上げ州立の美術館に電話を掛けた。「これから目の見えない友達とそちらへ行きたいのですが、友達が楽しめる物が一つもないなんてまさかそんなことはないですよね」というようなことを話しているのを聞いて、私は驚いてしまった。だが、行ってみると学芸員が私たちを待っていて美術館を案内してくれたのである。ヨーロッパのゴシック時代の聖母像や現代作家の彫刻の前で立ち止まって触らせてくれ、素材や形、時代背景などを丁寧に説明してくれた。時間の立つのを忘れて夢中になっている私のために、彼女はガラスケースの鍵を開けて中国の古い木像を出して触らせてくれたほど親切であった。
そのときの体験は私にとって大きな衝撃だった。私はそれまで本を読んで物事を理解しようとしてきた。つまり、言葉によって理解しようとしてきたのである。しかし、世界にはそうではない認識の仕方があることがわかった。本質が形に現れる、ということがあり、事物に即した確かな認識がある。言葉は抽象度が非常に高い。一つひとつ事物と照らし合わせ意味を確かめればよいのだが、それをしないままなんとなくわかったような気になることがある。目が見えていれば修正も容易につくであろうが、目が見えない私たちは、知らずにそのままになってしまうことがあり得ると思う。私は言葉による鑑賞、対話による鑑賞を否定するつもりはないが、本来美術は言葉から自由な表現であり、それを再び言語化するとき、どのようなことが起こっているのかを考えてみなければならないと思うのである。特に視覚に障害のある子どもたちの場合、なるべく視覚以外の自分たちの感覚を使って感じることのできる場面を多くしてほしいと思う。子どもたちが自分の感じたことを自分の言葉で表現するように促し、その意味を確認していく作業を丁寧に積み上げてほしいのである。そうすることによって、子どもたちは自分の感覚を信頼し、認識を深めていく言葉を身につけることができるからである。
私たちの周りには情報として使い捨てられてゆく言葉が多すぎると思う。本当の思いを伝える言葉、本質的な認識へ導く言葉を探すことは美術鑑賞とあるいは深く結びついているのではないだろうか。視覚に障害のある人たちの美術鑑賞を、そのような文脈の中で考えてみたいと私は思っている。
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