
1.それぞれの鑑賞
4班に分かれ「鑑賞とは何か」について中庭でグループディスカッションを行いました(35分間)。
<発表>テーマ「美術鑑賞とは○○である」
■1班:日野、北村、濱田*、森下、岡崎、梅田、ホシノ

「美術鑑賞とは、一つではない」(決めないこと)
→多様性があるものであり、意見もさまざまだった。
・美術鑑賞をしていたら終電を乗り過ごした。
・美術がなければ生きていけない。
・現代社会では「ゆるやかさ」が大事だが、それが許される場面が少ない。ゆえに、美術鑑賞は生きるうえで必要。
・美術は媒体である。一人の作家という人間から生まれた作品を媒体にすること、作家の真剣な表現と語り合うことで豊かになる。
・一方、美術に固執しすぎると硬くなるとの意見も。
■2班:塩瀬、武居、井尻、柴崎、松尾、村井、山田、大内、出口

「美術鑑賞とは、全力で観ることにチャレンジすることである」(全力で観るチャレンジ)
→「鑑賞とは?」の問いでは位置づけなどの意見が混同。
・知覚的印象。
・フィーリングによる印象。
・いろんな方法があり、いろんな見方がある。
・話していると高揚感が増す。
・好きなエンタテインメントである……など。
→「美術鑑賞とは何か?」と問い直す。
・褒めたたえるような鑑賞。
・固定的な観方とは違う。
・鑑賞者の自己表現。作品は作家がどう感じたか、その個性を表現しているので、鑑賞も個性が出る。どう感じているか言葉を尽くすので、作家の創作と同じくらい創造的な仕事。
・感情・感覚のマッサージである。普段は立ち止まらなかったのに絵の前では立ち止まれる。自分で鑑賞ができた感覚が大事。だから自分で観ないといけないもの …など。
→まとめ
・全力でアートを観ること。見えない人と絵の前に対峙したとき、言葉で表現するには、全力を出さないといけない。言葉にすべての感情や印象が込められるわけではない。だからその不定さに向かって挑戦が必要。そして不定だからといって手を抜くのではなく、自分の内から搾り出すように全力で向き合うことで初めて、その言葉の積み重ねが作家の創作と同じくらい創造的な鑑賞を可能にする。
■3班:廣瀬*、白川、杉浦、光島*、池尻、渡辺、高田
「鑑賞とは、五感を刺激し刺激される想像力の営みである」(自分のイマジネーションやクリエーションを起こすこと)

→博物館でも鑑賞は可能か?
・博物館では答えを求めている場合が多く、鑑賞という言葉はあまり使わない。
→鑑賞とは何か?
・作品と対話すること。会話によって鑑賞する。
・それぞれの鑑賞がある。
・インプットとアウトプットがある。
・全盲者は触った方が記録に残り、再現性がある。
・インプットは一時的、直接的なものだが、言葉による鑑賞は二次的。視覚的に得たものが言葉に変換され伝わる。
・表現であるアウトプットよりインプットが大事。インプットは、対象物によって五感が刺激されること。
→キーワード
・「想像力」。鑑賞によりイマジネーションやクリエーションが自分のなかでどう起こるか。
(廣瀬:広義で捉えれば博物館でも鑑賞は可能だと思う)
■4班:木村、白鳥*、阿部、石田、森山、杉、吉岡、
鑑賞とは、創作表現である」(自分と会話して自分をつくり上げること)

→美術館で何を楽しむか?
・さまざまな鑑賞スタイルがある。
・作品を観て自分のなかで発見する。
・一緒に観ている人と同時性を味わう。空間を鑑賞する。
・触れる作品は話さずに一人(自分)で観たい。が、対話型も大切な鑑賞スタイル。
→鑑賞にはチャンネルが二つあるようだ。
・一人での鑑賞は、自分のなかで発見し、取り込んでいく。
・対話型の鑑賞は、美術が難しい、鑑賞のしかたがわからない、というところにチャンネルを与えること。
→まとめ
鑑賞とは、対象物を自分のなかに取り込み、自分をつくり上げること。作品を介して、もう一人の自分と会話する行為。言葉による鑑賞も、それらを含め、自分のなかにイメージをつくり上げる創作行為。
◇◇◇
司会:発表に対して質問や意見はありますか?
R塩瀬:4班の「鑑賞は創作表現」について。2班でも「表現」という意見が出ましたが、「言葉を使わなかったら?」という疑問が上がりました。沈黙も表現ではあるでしょうけれど、「言葉を尽くそうとしたときに全力が出る」といったような表現が、一人での鑑賞でもあるのかどうか……。4班の「表現」とはどんなものでしたか?
G3白鳥*:4班の言う「創作表現」は、内面的なもの。一人での鑑賞でも、作品を見て感じて、何かを自分の中に取り込んで、自分の中で対話して、自分の中でつくり上げる行為を含んでいます。
G1石田:一つの美術作品があるとして、その半分は、それを観てイメージする側(鑑賞者)の創作物です。作品は変化しないが観る人自身は変化し、観る人によって、また観る時期によって刻々と変わります。また、創作過程のなかに、既に作者の鑑賞が入っています。観る自分とつくる自分がいて、それを繰り返す過程で、一つの美術作品ができ上がる。
司会:ディスカッションの中では、「自分との対話」とか「一人で鑑賞していても一人ではない感じ」といった意見を聞いて、対話は、二人で観なくてもありうるのだなと思いました。
M梅田:1班では、最初にホシノさんが「美術鑑賞とは、人生である」と断言していたのですが、自分の体験や人生と結びつけてかかわるところに美術鑑賞の特色があるなと思いました。
R井尻:ここで上がっている美術鑑賞と大学での美術鑑賞の位置づけは同じですか?
R杉浦:うちの大学が打ち出そうとしている鑑賞教育の提案と、ここで上がった鑑賞と一致するかはわかりません。ただ、一般の学生が「鑑賞とは何か」を考える機会はあまりないと思いますが、アメリアなどの授業が手がかりとなって考えることはあるかもしれないですね。

G2光島*:ディスカッションの中で、「鑑賞とはコミュニケーションである」という答えはありましたか? ビューでは、コミュニケーションを楽しみに参加する人もいて、私自身は少し戸惑うこともある。おしゃべりが目的になっていることに抵抗を感じる人もいると思うのですが。
G1石田:4班では「コミュニケーションだ」という意見は出ませんでした。一人で作品と向き合うときは、自分の中にいるもう一人の自分と仲よく一緒に鑑賞している状態。数人で鑑賞するときは、自分の中にも他者がおり、作品や一緒に観ている人の中にも自分を見ることがある。言葉によるコミュニケーションの前に、言葉になる以前のコミュニオン体験があり、対話の前に「同じ時間、同じ場所にあなたと一緒にいる」という関係があると思います。
司会:今のお話を伺って「鑑賞はそもそも一人でするものなのか?」という疑問が思い浮かびました。児童心理学者のヴィゴツキーは、子どもが世界にかかわっていく際には、身近な大人の関心や目線をたどることが重要であること、つまり人は一人ではなく、必ず誰かほかの人を介して初めてものを見たり、世界に触れることができるようになるのだと言っています。その意味では鑑賞もまた、他人という存在、あるいは自分の中の複数性があって初めて成り立つことなのかもしれません。
R塩瀬:この会議で話したかったことが二つあります。
一つは「どうあれば鑑賞を持って帰れたと言えるか」。見える人、見えない人、美術館の人それぞれ、言葉にできないままでいると思います。一つでなくてもいいので、この言葉による鑑賞で「やった」と思えるとはどういうことかを知りたいです。
二つ目は、システム化について。この活動を広げ継続するには、システム化が必要だと思うのですが、思いが少しずつズレてくる恐れがあると思う。賛同者が増え、動きがスムースになるかわりに、最初に立ち上げた人の思いが消えていく恐れもある。見える人、見えない人、美術館の人、それぞれ期待が違うと思うが、焦って一つに絞らず、これもありあれもありと、まな板に並べて共有したい。
司会:グループディスカッションで、1班は定義をしない、システム化しない方向にある。しかし、言わないと固まらないし続かない。そこが難しい。
R塩瀬:言葉による美術鑑賞自体がそういう性質を持っていますよね。作品から得た感想が言葉にすると消えてしまう。でも、横にいる見えない人に伝えるには、言葉にしないといけない。それには誠実に言葉を尽くすしか方法がないと思う。システム化の場合も、これがすべてじゃないと覚悟して全力でつくるしかない。言葉による美術鑑賞とは何か? と言ったときに、どれだけ人智を尽くせるかが、僕たちに課せられているのだと思います。
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